Paris/Creteil

一昨日,3月29日(火)の朝に自宅を出て,関空12:00発のフライトでパリに.同日の現地時間で17:15にCDG空港に到着.12時間程度の直行便で,半日ほど本を読んだりテレビを見たりして,ゴロゴロと過ごした感じ.ラクチンでした.
あいにくの雨模様だったけれど,ずいぶんと暖かい.
僕はというと,パリの後にダムの公演でストックホルムへ行くので,セーターの上から冬用のコートを着て着ぶくれ状態.出る前に調べたところ,ストックホルムの最低気温はマイナス一度.
空港で,別便で来ていたRefined Colorsメンバーと合流.モノクロームの面々には京都で会ったけれど,何処にいても忙しい南君や東京の大度君はずいぶん久しぶりに会う.彼等はソウル経由の朝早い便だったので,ずいぶん疲れた様子.お疲れ様です.
(でもその代わり,僕がストックホルムから日本へ帰る便の出発時間は,早朝6時過ぎ.つまり空港には4時過ぎに着いてなくてはいけない...劇場でのバラシが夜中1時くらいで終わるとして,それからホテルでパッキングして,シャワーを浴びて,あとちょっと時間をもてあますかな...)
昨日,30日は朝から劇場入り.10時に入ると,もう既に壁と床は出来上がっている.
会場はパリ郊外で,地下鉄の8番南の終点クリテイユにある,la Maison des arts de Creteil.
ダムとは縁があって,もう10年以上のつきあい.ここの小劇場(Petite salle )で,pH・S/N・OR・memorandum・Voyageを公演している.なので今回も,準備は万全.何せRefined Colorsは,軽量化を試みている作品なので,セットもシンプルなもの.それでももちろん仕上がりには差が出てくるものだが,今回はオーダー通りの仕上がり.
あとは頑張るのみ.

Refined Colors in Creteil


Creteil公演終了.
無事終了と書きたいところだが,今回は「何とか終了」という感じ.
お客さんはずいぶん満足してくれた感じだったし,内容的にもあまり遜色はなかったと思う.
でも,僕たちとしては,ずいぶんヒヤヒヤした公演だった.
本番の前日に,ダンサーのひとりが突然,腰の故障にみまわれて,その夜に予定していたラン・スルーが出来なかった.
僕が前に経験した「ぎっくり腰」とは少し違うみたいだが,とにかく身体が必要以上に緩んだところで急に動いた拍子に,何処かの筋が伸びきってしまったらしい.
背骨などには異常はなく,「ただ痛いだけ」で,無理に動いても何か後遺症があるわけではない,という医者の診断は嬉しかったが,でもそれで痛みが消えるわけではない.「ただ痛いだけ」と言われても,痛いものは痛い.そして僕の経験では,それはほとんど恐怖に近い...
本番当日の午前中いっぱい医者に診てもらって,何とか動けると劇場に本人が戻ってきた時は本当に嬉しかった.でも実際の話,本番中もとっても痛かったんだと思う.
2日目の本番が終わった時には,みんなほっとした様子だった.もちろん一番嬉しかったのは,負傷した本人だろう.
ただ,そんな事情は観客の知るよしでないし,内容的にも何かを省略したり変更したりしたわけではない.
公演のあとの拍手も,パリの友人の話では「3度あれば上々」というコールが4度(初日)・5度(2日目)とあったし,幾人かに聞いた評判も良かった.何より,まだ確定ではないけれど,次の公演の話が幾つか来たことが嬉しい.
公演が続くと,内容に手を加えていけるし,この作品に集中できる時間も増える.
今回の機会を作ってくれた,MAISON DES ARTS DE CRETEILのEXITフェスティバルに感謝.

今日はオフ.
明日は,ダムのVoyage公演のためにStockholmへ移動.
日曜で何処も開いていないかと思っていたら,近くで路上マーケットが開催されていて美味しい食事をゲット.南君・大度君と,公園で白ワインを飲みつつ盛大にブランチ.その後,観光地(Barcy)のショッピングモールへ行っていろんな食材やおみやげを買い込み,夜は夜でパリ在住の知り合いの案内で鴨を食す.満足...

写真は,Creteilの舞台とオペレーション・ブース.手前から,照明コントロールPCノート,南君のMACpb,劇場の音響ミキサー,その奥が大度君と彼のpb.実質,ノートブック・コンピューター3枚で,全ての操作をしている.

Stockholm

DANSENS HUS

一昨日,パリからストックホルムに移動.
CDG空港2Dエリアの出発情報表示システムがおかしくて,危うく乗り遅れるところ.
もともとあの空港は,僕の感覚では分かりにくい気がする.考えなくてもやり方(行き方)が分かる,というのが良い駅であったり空港であったりだと思うのだけれど,あそこは考えないと飛行機までたどり着けない.
しかも今回は,2時間前からずーっとモニターを睨んでいたのだが,ついに一度もチェックインカウンター番号が表示されなかった.全部がそうなら,まずスタッフに聞いてみるが,他の一部のフライトや,自分の乗る便の出発ゲートは出ている.ただ,ストックホルム行きを含めた5便ほどの,チェックインカウンター番号だけが,いつまでたっても出ない.遅いなぁと思いながらだらだら待っていて,5分前に飛ぶフライトのボーディングが始まったとの表示が出てから,慌ててスタッフに聞くと,こともなげにカウンター番号を教えてくれた.「何処のモニターにも表示が出てない!」と怒ると,肩をすくめて何でかなぁという顔をされた.
驚異的なスピードで手荷物チェックを通り(これはこれで大丈夫か?),飛行機に駆け込む.
ストックホルム・アーランダ空港で,日本から来る他のメンバーと合流.しかし今度は,僕より少し後に着くはずのみんなが,なかなか到着ロビーに出てこない.なんとこっちもアクシデントで,こちらはKLMでアムス経由だったが,12名中8人分の荷物が一緒に着かなかったとのこと.これはかなりの確率.でも,数時間後にはホテルに届いて,まあ大きな問題はなかった.
昨日から,DANSENS HUSで仕込み開始.
前に一度[OR]という作品で来ている.
スタッフや設備・雰囲気共に良い劇場なのだが,惜しいかなプロセが低い.もともとの建物の問題だろうが,防火壁の飛び切りでステージの額縁の高さが決まってしまい,これが6m を少し切る.
あと1m 全てが高ければ,とても使いでがあるのになぁ.
セットアップは,問題なく進行中.

Dansens Hus

公演3日目最終日の朝.
公演が3日以上あると,ずいぶん気楽である.
初日は,照明の調整等のために,朝から劇場入りしなくてはいけないし,最終日はバラシの準備をし,終わってからバラしてパッキングして積み込んで...間に公演のみの日があれば,街も見れるしずいぶんゆっくりした気分になれる.
会場のDansens Husは,とても居心地が良い.
前にも書いたように,プロセニアムは少し低いし,楽屋からはステージを通らないとホワイエに行けないし,客席の足下灯や非常灯が明るすぎるなど,数えだしたら幾らでも欠点は挙げられるのに,でもこれまでに訪れた幾つもの劇場の中でも,格段に気持ちよく公演が出来る.前に来た時も,同じ感じを受けた.
うまく書けないけれど,劇場のポリシーというか心構えみたいなものが,公演するアーティストにも,観に来るお客さんにも気持ち良く過ごしてもらえるように,細かなところまで心配りされている感じなのだ.それも,決して押しつけがましくなく,あくまでも個人の裁量でいろいろできる隙間を残しつつ.
働いているスタッフ数は決して多くないし,前回に来た時とは顔ぶれも変わっていたけれど,劇場の空気は変わっていない.
こう書くと,何だか凄く特別な場所のようになってしまうが,実際は他の劇場と何か大きな違いがあるわけではない.時たま出会うレストランやホテルでも,こういう場所がある.特にリッチでもゴージャスでもなく,でもリラックスできて何度でも通いたくなるようなところ.たぶん,こういう空気は厭きずに少しずつ細かなことを積み上げて,出来てくるものなのだと思う.
写真は,グリーンルームを兼ねた楽屋の溜まり場(この周りに,個人用のキャビンがある)と,たぶんロビー,街中,そして打ち上げ(これは後から写真を追加).

In and Out

1 Year 5 Month

早朝6時50分のフライトでストックホルムからパリへ飛び,空港で4時間半待って日本へ.
まだ桜が咲いていて,しかも良い天気.美しいなぁ.
でも夜には花粉症で鼻がずるずるいいはじめる.グァバ茶を飲んだら,だいぶんましになった.
ちょっと愚痴.
CDG空港の,ゲートが並んでいる箱船のような巨大な空間で,待つことに厭きたのか日本のおばちゃん達が,宴会芸のようなことをやりながら,ぎゃはぎゃは騒いでいた.楽しそうなのは悪い事じゃないし,別にじーっと大人しく座っていなきゃいけないわけでもない.たまのバケーションだしね.
でもねオバチャン,あなた達だって日本では,周りを一切気にかけずに一心不乱に地下鉄の中で化粧する娘さんや,通行人を気にせずコンビニの前に座り込む少年達に眉ひそめてない?
何で,言葉が違ったり自分があまり来ないような場所だと,周りの人を人とも思わなくなるかなぁ?
帰ってテレビをつけたら,北京の対日デモのことばかり目についた.
確かに,あまりいい気はしない.でも,彼等がなぜ怒っているかについては,通り一遍の説明だけで,よく分からない.どうも日本のメディアは,「理不尽なデモ」という印象を,僕たちに与えたがっている感じを受ける.
他にも韓国との「島」の問題や,その他色々なことが一気に出てきてるけど,なんだかなぁ.
「周りは敵だらけ」って印象を強くして,「自衛隊をきちんと軍隊にしよう」という方向に世論を持っていきたい人達が,アメリカのネオコンみたいに,日本政府の何処かに存在してるんじゃない?

Demolition

 

11日に帰国してから,既に2週間近い.
何度か更新を試みたのだが,酔いや眠気に負けて断念.
この期間,ほぼ毎日,僕の生家であり30数年過ごした家に通っていた.
去年末に祖母が他界し,その関係で売却され取り壊されることになったのだ.
建築後80年近く経った家で,無くなるのは残念だけれど,僕のモノではないのでどうしようもない.
せめて,再利用できるモノはと,たまたまこれから自宅の建築予定のある友人に建具や床板や階段のパーツなどをもらってもらい,僕自身も廊下の床板や,庭木の一部などを移し替えて持ち帰った.
祖父が,面白い趣味の庭いじりをしていて,あの家には色々な木々が植わっていた.その多くが「食べれる」モノだった.
記憶にある限り,時系列を重ねて羅列すると,南の玄関から入って時計回りに,まず笹に南天,それから柘榴・椿・棕櫚・芭蕉と続き,西に回ってグミ・夏蜜柑・妹の名前の由来になった山桜桃・母の名前の杏(杏子が母親の名前)・鬼胡桃の木があった,そこから北に回って,また棕櫚の木があって東の庭に抜けて,今度は食べられる胡桃の木が2本・それがあまりに高く育って倒れると危険だからと伐採してからは合歓木が植えられ,次に無花果・柿・山桜桃・椿・百日紅で一周して南側の玄関に戻った.
こじつけかも知れないが,ずいぶん後になってからチュニジアのサハラ砂漠で,ナツメヤシの群生するオアシスの中,高い木立の下に柘榴や無花果やバナナ(芭蕉に似ている)が植えられているのを見て,ひょっとして祖父はこの風景を何かで見たことがあったんじゃないかと,その類似性に驚いたことがある.

あと、とにかく,階段や廊下の板をはがすだけで,住処を建てることの大変さを実感.大工の棟梁の数だけ,様々な工夫や技があるのだ.
「建築物ウクレレ化保存計画」で,制作のために話を聞き取りに来てくれた伊達君に,「あまり建物には愛着がないの,庭木はどうにか出来ないかと,それは考えているのだけれど...」と言った母の言葉が,印象に残った.
離れて9年ほど経つ実家ではあるが,無くなるのは残念である.
まあせめて,その最後に立ち会えたのが,幸運としよう.
実際,まだメールがなかった頃,僕は長い公演ツアーから帰って,地下鉄の駅から出て家に向かうたびに,この数ヶ月の間に跡形もなく家が無くなっているんじゃないかと,何度も想像したものだった.
おととい土地建物の引き渡しで,今日改めて様子を見に行くと,既にパワーシャベルが入っていた.
百日紅と柘榴の木は,まだ立っていた.