In mourning

こういう事をこの場に書くのはどうかとも思うが,今年の6月に実父が他界した.突然の死というわけではなく,ある程度の覚悟はしていたのだが,その翌月に妻の父が逝ってしまった時には,かなり驚いた.
それで,ひどく慌ただしい6月と7月だったわけだが,一連のお別れが終わった後に困ったのは,こういうのは,誰にどのように伝えなければいけないのかという判断だった.誰だっていきなり僕に,「この前,父親が二人とも逝っちゃってね...」などと話しかけられたら,びっくりするだろうし,そんな話を聞かされてどうリアクションすればいいかも困るだろう.
と,以上は言い訳で,多くの友人・知人にようやく喪中葉書を出し終わった今日まで,父親二人のコトはほとんど誰にも話さなかった.
僕の実父は十数年前に,アルコール依存症で一度死にかけている.そしてそれを期に断酒して,同じ元依存症の人たちが集う断酒会の支えもあって,その後死ぬまでの十数年間は一滴のアルコールも口にしなかった.断酒するまでの彼の人生は,本当につらかっただろうと今なら僕も思えるが,その渦中は家族もかなり大変で,彼の気持ちを思いやる事は難しかった.それでも,最後の十数年間,父親はずいぶんがんばったと思う.えらそうな事を書けば,この年月がなくてあの時逝ってしまっていたら,それはそれは悲しい人生だっただろう.
その無理な飲酒が祟って,断酒してからの彼の身体は,肝臓はもとより体中ボロボロだった.それでもそれなりに,母親ともいろいろな所に旅行にも行き,長年住み慣れた住み家から新居に引っ越しも済まし,ある程度のけじめというか準備も整えた後に何度か入退院を繰り返し,6月に帰らぬ人となった.
実は僕は,父親が逝く前と,逝ってしまった時には,別々の仕事でそれぞれ海外に出ていて,今際の時にもお葬式にも間に合わなかった.というか,もともともしかしたらそういう事になるかもという了解を,僕の母親も含めた(そして父親もわかっていたはず)家族から得ていて,「次に帰るまで元気で.」という言葉が父と交わした最後の会話になった.
もちろん,親不孝のそしりは免れないが,我が儘を承知でいうと,そんなに不幸な別れ方だったとも思わない.ただ,僕の両親はやっと新居に落ち着いたばかりだったので,あと数年間くらい,これまでの事を取り返すように,もう少しゆっくりと寛いだ時間があればもっと良かったのにとは思う.
逆に,妻の父親は,治療のはずの手術の後,そのままついに麻酔から覚めなかった.本人はもとより家族の誰一人として,こんな結果は思いも寄らなかったはずだ.かつ,意識は戻らないものの,数日間は呼吸も心臓もしっかりしていたので,その間の手術に対する葛藤というか疑心というか様々な思いは,ずいぶんと妻や家族を苦しめた.
僕は,此処でも不孝者で,最後に義父と言葉を交わしたのはずいぶん前で,次に会った時には,もう眠り続けておられる時だった.妻の両親は,少し離れた土地に住んでいて,日々の忙しさとそれを理由に,長らく遊びに行かなかった.後悔しても,今から取り返せる事ではない.すいませんでした...
暑い夏の義父のお葬式には,娘も連れて家族3人で妻の里に帰った.人を送る儀式が,今僕らが住んでいる所よりずいぶん濃密に残っている場所で,それなりのお別れをすませたように感じたのだけれど,義母や妻や兄弟姉妹にとっては,それでもまだにわかには別れがたい,突然の死だった.
今年の夏は,そんな一生忘れられない夏でした.
その簡単なお知らせの喪中葉書を,12月になる前にといわれて慌てて出したので,此処にもいちおう書いておきます.

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