まあ,長いタイトルほど,あまり書くことが無いようなのだが...
連休は,保育園が休みで,僕は続けて娘と日を過ごす.まあとにかく,日ごろとは違う行動パターンになるので,いろいろ発見も多い.近所の散策だって,娘が産まれなければ,これほど歩き回らなかっただろう.視線は常にもっと遠いところに向いていたようなので,京都の良さを再認識させてくれたのは,彼女の存在だといえる.
前に書いた大文字山も,毎日自宅から眺めていたとはいえ,わざわざ登りに行くなんて,前は考えもしなかった.でも,改めて登って見ると,なかなか面白かったりして...
そんな連休のさなかのある朝,ウチの金魚が死んでいた.
今年の初めに飼い始めた,ぐるぐるという名の赤い金魚らしい金魚だったのだけれど,世話が足りなかったのか,レトロな水槽に水草のみという環境が悪かったのか,徐々に弱ってきたのは気になっていたのだけれど,遂に逝ってしまった.
僕の世代ですら,死は身近でなく,あまり亡き骸を見ることは多くない.昆虫類はともかく(ゴキブリを叩きつぶしたりもするので),もっと大型の生命体の生きている様が,死骸に変わるのを見ることは稀だ.
亡き骸を見て,改めて実感したのだが,生きているものと死んだものの間には,宝石とそこらの川石くらいの違いがある.何というか,生きてる時には当たり前すぎてわからないのだが,金魚の死骸といえども,何だか内から光り輝いている感じが無くなるのだ.
「魂」という概念を,当たり前に多くの文化が持っている理由を実感できる.
まだ3歳半の娘が,完全に死を理解したとは思えないが,彼女もぐるぐるん死を悼んでいる.去年,祖父が二人とも逝ってしまったのも,現実としてちゃんと理解しているようなので(つまり,もう会えないということ),それよりももっと身近なぐるぐるの死は,彼女にとってものすごく大きな出来事かも知れない.
それが恐怖にならないように,できるだけちゃんとケアーしたいと思う.
写真は,自宅から望む大文字山と,手製のお棺に入ったぐるぐる(冥福を祈る).