友人の見舞いに行った.
思っていたよりも,顔色も良くて,しっかり話も出来る.痩せてるし,身体にチューブがくっついていたけれど,僕がいる間に歩行訓練もして見せてくれて,3月に倒れたダメージから少しずつでも回復しているように見受けられた.
頭の腫瘍の手術を受けたということで,会話も少し努力がいるようだったけれど,でも言葉が出難いとはいうものの,それは思考の内容とは関係ないようだった.
あまり気の利いたことは言えないけれど,その時話したのは,発話と黙読の違いの話で,発話はほとんど本能のような生得的な能力だという.何の本で読んだのかは忘れてしまったけれど,ちょうど入院している部屋に行った時に,リハビリで音読を一人していたので,そういう話になった.
発話というか発声で他とコミュニケーションをとるという行為は,多くの動物で見受けられるが,黙読はまったく人間の技術である.しかも,かなり新しい.人や店の名前,祈りの言葉なんかは,昔から黙読するということが存在したかもしれないが,まとまった文章,しかも情景描写や抽象的な思考の足跡や,会話,様々なデータなどを声を出さずに読み込んでいくというのは,大半のヒトにとってはグーテンベルク以降,いや実際はもっと遅くて,小説の誕生以降に開発/体得された技術である.
そのことからも分かるように,今日僕たちが使っているような意味での,話す事と読み書き,そして付け加えるなら,そうして伝搬していく言葉の内容を理解することは,まったく別の能力で,使う脳の部分も違う.
友人は,話し方こそ詰まりながらだったけれど,こんな内容の会話なら,問題なく楽しめるようだった.それに,見舞いとして今後持参希望の本の話などしていたら,僕がこの前読んできれいさっぱり忘れてしまっていた有名作家の短編の内容を,よっぽどよく覚えていた.素人考えだけど,ただ単に読む技術のいくぶんかが消えてしまっただけなら,それはきっと取り戻せると思う.
そんなことを考えながら,あらためて秋葉原の人殺しの事を思う.
連日,マスコミを賑わしている事件だけれど,あの人殺しの現実(感)には,弱者も病者もいなかったんじゃないかと.容姿が悪い,お洒落じゃない,それで結局異性にモテない,だから負け組だというけれど,健康で飢えることもなく移動の自由もあったわけだ.それに,知識だって人並みにあった.
欠けていたのは,想像力でしょう.
もっというなら,親に無理強いされた義務教育期間だったというけれど,現存の人類の中で,日本レベルの教育を受けられて,それを自由に使える立場にある者がどれだけいることか...
別に,そういう迷惑な人達が海外に出て,今だにある程度は有効な,日本の国力を実感しろとはいわない.上を見るな,下を見ろ,という話でもない.ただね,「現実」は結局,その個人の想像力によって構成される,と思います.
ヤケクソになって人殺ししか選べないのは,他人のせいじゃない.
生き抜くための想像力を育てるのに,容姿も資産も関係ない.
世界の広がりや美しさを実感できるモノ/コトが,日に日に自分の周りから失われてきているという実感が,いまの日本で暮らしていると確かにある.それでも,想像力とユーモアで,それに立ち向かっていくこと.
写真は,まるで関係なく,部屋の窓際に育つ草や静物.