本当に久々の更新.
一昨日,6歳の娘に,オセロで負けた.ろ,ろ,6歳児に...
うーん,大丈夫か自分,と思う反面,親バカな感慨もある.よくぞ,2つの細胞から6年10ヶ月あまりで,ここまで.
凄いもんだ.
とても敵わないまでも,こちらも少しずつでも進まねば.無限の時間があるわけじゃないのだから.
ちなみに「true/本当のこと」,もうすぐマカオと香港公演です.
Macao, Macao Cultural Centre – Small Auditorium
05 June 2010
http://www.ccm.gov.mo/en/page/page_programs/programs_details.asp?event_id=1464
Hong Kong, Hong Kong Cultural Centre – Studio Theatre
18, 19, 20 June 2010
Presented by Leisure and Cultural Services Department/
Organized by orleanlaiproject
http://www.lcsd.gov.hk/CE/CulturalService/Programme/en/multi_arts/0000019d.html
God of odds
Macaoにtrueの公演で,来ています.
といっても,公演はすでに無事に終了.会場が国立劇場的なところで,スタッフも設備もかなりよくて,ブラジル以来の久々の公演ながらも,さしたる問題もなくするすると進んで,いい出来で終わりました.
それから,図面描きや打ち合わせなどを進めるために,ちょっとMacaoに残っているのだが,終日曇天の割りにはわりと過ごしやすい気候で,しかも物価が安くて食べ物がなかなか美味しいので,ぶらぶらと散歩しては飯を食うだけで,あっという間に1日が終わる.
しかし,Macaoは噂にたがわずカジノだらけの凄い町で.とにかく,そこら中に突拍子もないビルが建ち,変なビルはことごとくカジノ.
中心地の,世界遺産のある辺り以外,それほど観光客は多くないように見えるが,いざカジノに入るとヒトでごった返している.見ていると,大半がメインランド(中国)からの観光客のようだ.
僕も,とにかく外見が派手なカジノを3軒ほど回ってみたけれど,どうも何が面白いのか理解に苦しむ.
というのが,もう100%どう見ても全てのシステムはデジタルでコンピューター制御されている.
中には,ディーラーすら画面に映ったCGが相手というところもある.まあ,大半はちゃんと人間がディーラーをしていたけれど,でも,ゲームに何かの機械が関与していないところは無い.カードだって,変なマシンに入れたら,下から必要な枚数が出てくるようになっている.
人間が,研鑽を重ねた手技でいかさまをやるのも困るけれど,でも機械は誤魔化さないなんて,なぜ信じられるのだろう?
もっと不思議なのが,簡単な骰子ゲームなどは無人化されていて,骰子が画面に表示されていたりするのだが,あれは物理的なものではなくてプログラミングなのに,なぜ同じゲームだと思えるのだろう.
ギャンブルには詳しくないので,的外れな意見かもしれないが,賭け事で運否天賦を競うのには,その一番根っこに0か1か,赤か黒かの確率は常に2分の1だというのがあるように僕は思う.
つまり,もっとも単純なゲームで,例えば半丁とか大小とか,確率1/2のゲームがあったとして,仮に100回同じ出目が続いたとしても,つまり100回連続で「半」が出たりずっと「大」だったとしても,次に丁半や大小のいずれの目が出るかは,やはり確率2分の1でしかないというのが,博打の魅力じゃないかと思えるのだ.
でも,システムに制御されたギャンブルは,きっとそうじゃない.
裏側の何処かでは,出目の統計と出入金の管理が細かくされていて,たまにガス抜きのためにある程度の当たりがでるように,細かくプログラミングされているのではないかと僕は勘繰ってしまう.
そうなると,それは賭け事ではなくて,複数の参加者のうちの誰が幸福(当たり)を掴むかという,能力とは関係ないサバイバルゲームのようなものに思えてくる.
それは確率の神との勝負というより,参加者が上を向いて,お宝が落ちてくるのを口を開けて待ってるような状態に思える.
まあ,宝くじもおんなじようなもんだと思うけれど,そんなの面白いか?
HOKKAIDO at Singapore 01
唐突ながら、シンガポールに来て17日目。
今回は、4週間の滞在で、現地出身のダンサー/ディレクターのDaniel Kと「Hokkaido (Or Somewhere Like That)」という奇妙な名前のパフォーマンスを作っている。
Hokkaidoとは北海道の事、今やシンガポールや他のアジア人には憧れのリゾート地だ。
http://www.dansfestival.com/2010/shift-hokkaido.html
作品自体は、写真の記憶がやがてフィルムへと動き出していくという軸と、それに絡まるダンス。
技術的には、高解像度の映像の投影と、フレーム単位ので映像とLED照明の同期などを試している。
今回は、僕が持ち込んだLED照明とタマテック社のLiddell xkwに加えて、シンガポール側からCATALYST使いのウーチェンが参加、会場にあるWholehogと組み合わせて、自在に映像を操っている。
舞台は、memorandumのセットでORの照明をデザインしているような状態になっていて(内容は、もちろん全然違うが)、LEDを使いながらも、色味はほとんど使わず、LEDの反応の速さを駆使している。
あと、Atomic 3000 DMXも3台吊っているので、かなり明るいフラッシュが使える。
Atomic 3000自体、もうかなり古い機種だけど、それでもORの頃とは全然使い勝手が違う。LEDと合わせると、かなり面白い。
ちなみにアクティングエリアは、11m (w) x 5.5m (d)で、スクリーンは11m (w) x 2.5m (h)。そこに、明るさ1万ルーメンのCHRISTIEを2台使ってリアプロで映像を投影し、真ん中でブレンディングしている。これが奇麗にミックスできるので、なかなかの画面だ。
ただ、プロジェクター用のシャッタ(ダウザー)の良いのがなくて、DMXでコントロールしているのだが、ずいぶんレーテンシーがある。プロジェクター自体の内部シャッターも同じ。なので、このコントロールに苦労している。
あと、すべての映像ソースが25フレでできていて、僕のLiddellが秒間24フレでしかプログラムが書けないのも悩みの種。
それにダウザーのレーテンシーもあるので、結局最後は眼で見つつ調整みたいなことになってしまう。
今回は、ホテル28連泊で、朝食も付いているしネットも繋がるし、毎日掃除もしてくれるので楽ちん。
おまけに小さなプールもあるが、まだ泳いではいない。4週間より長い滞在制作も経験あるけれど、ホテルに28連泊は、今のところ最長かも。
シンガポールは、先週末はF1で盛り上がり、街は大変なことになっていたけれど、今週はそれも落ち着き、ついでにクリエーションも、日曜にフルバージョンのプレビューを行って、今週はそれを受けてのアップデート。
しかし、劇場は他の公演で使われているので、主にビデオを見つつホワイトボードを前にミーティングという感じ。英語でのディスカッションは、完全に全部理解できてるとは言えないけれど、前にエアさんとやっていた時は、メインがフランス語でサブがベトナム語、それに時々英語少々という状態だったので、それに比べるとずいぶん話しやすい。
ということで、ここに来てようやくたまっていたメールの返事も書き、時間的な余裕も出て来たので、また近況など書いてみます。
ではでは。
HOKKAIDO at Singapore 02
あっという間に日が経って、もう今回の滞在も明日1日を残すのみ。そう、今日は公演最終日。
いろいろ書こうと思っていたことはあるのだが、例のごとく頭の中で考えるだけで満足して、結局文章にしなかった。その中でもいちおうメモ書き程度でも残しておきたいことを少し書いておく。
まず、F1。
印象に残ったのは「音」。
わりと頻繁に劇場などで大音響に接している方なので、爆音には慣れっこだと思っていたのだが、それがいかに飼いならされた音かを実感。
どれだけ高速で走れるかだけを追求したマシンから発せられる音は、丸裸の凶暴性で襲いかかってくる。
今までサーキットに足を運んだ事がないので確かな事は言えないが、特に市街地のレースというのはビルなどの反射体が多くて、音から逃げようがないというか、建物から出たり地下道から上がったら、本当に目の前をF1が爆走している状態で、四方から音が襲いかかってくる。
でも、肝心のレースの内容は、事前の知識が全然ないので、どの車がどこの所属かも全然分からず、観ていてもさっぱり理解できない。
しかし、モナコといいシンガポールといい、小さな都市国家だからこそ市街地レースなんていう無茶なことが出来るのだなぁと実感する。あからさまにいえば、金持ちが楽しいんだから、貧乏人は少々不便でも一週間くらい我慢しろという感じ。
次は、全くもってシンガポールとは関係ないが、こっちで深夜にNHK衛星放送を観ていて、初めて今敏監督が亡くなられた事を知る。追悼番組として今監督が出演された「トップランナー」の再放送をやっていた。
まるで知り合いみたいに書いているが、残念ながら一面識もなかった。それどころか、今までに「東京ゴットファーザーズ」と「パプリカ」をDVDでしか観た事ないので、偉そうにファンだとも言えないような者だけど、凄くファンでした。
特に「パプリカ」は、立て続けに2回観たくらいで、いつか映画館で観たいものだと願っていました。
46歳という若さで逝ってしまわれたのは、本当に残念。今監督自身が一番残念だっただろうと思いながら読んだ、その気持ちが垣間見えつつも見事なお別れの言葉「さようなら」にも泣きました。
そして、それから読み始めた、オフィシャルサイトのブログが、とんでもなく面白くてためになる。
今までちゃんと意識していなかったし知らなかったのだけど、当たり前の話だがアニメは全部人が描いているのだ。
例えば、実写の映画監督の製作ノートだとかインタビューだと(あまり読んだ事ないが)、こういう演技をしてほしいと役者にお願いした、みたいなコメントが製作の裏話みたいにでてくる。でもアニメの場合は、その先があって、こういう演技をさせたいので、こういうふうに顔を動かしてそれをこっちからこんなふうに撮っているように見えるように描く、という作業が行われる。
ブログにはいろいろなアニメ制作の専門用語が出てきて、それを読んでアニメの制作体制というか作品ができるまでのシステムを理解できるが、それを僕がここで説明するのはお門違いなので、実際のブログを読んで欲しい。
ちなみに、実写でもそうだがアニメも共同作業だし、全部の演出や製作を監督がするわけではないが、どこにでも意思疎通が難しいスタッフはいて、監督的に全く使い物にならないカットが上がってきた場合、今監督はそれを書き直しているし、それができるだけの画力というか技術力があったらしい。そんな話も出てくる。
それで、何が面白いかというと、そういういろいろできてしかも監督をしている人が、自分の仕事を事細かに解説してくれているのだ。
コンセプトから演技指導(という作画テクニック)、全体の編集からちょっとした演技の間まで、すべてが緻密な計算のもとに人の手によって積み重ねて作り上げられている。それらすべてに、きちんと意識が行き渡っているのだから、その解説が面白くないわけがない。
あと、今監督の、観客の知性を信じる態度も好きです。観客は馬鹿なので、馬鹿にでもわかるように説明しないと商品が成り立たないと考えて作られている作品が多い中、とても救われます。
といっても、「借り過ぎに注意しましょう」とわざわざ金貸しが広告で訴えるようなこの国で、どこまで観客を信じられるのか、それはひょっとして作り手の独りよがりではないのかと、疑いたくなる事も多いのですが・・・
でも、時々、「私にはわかりますが、これが一般のお客さんに通じるのかどうか・・・」というふうな感想を言ってくる人にもむかっ腹は立つのですが・・・あんまり怒ると健康に悪いなぁ。
それで、肝心の「HOKKAIDO」は、いちおうの完成を見て、昨日今日と公演です。
ディレクターでダンサー・振付家のダニエルと話していて、一番感じたのがシンガポールでのWork in progressの難しさ。
日本での作品制作だと、東京以外でも2カ所くらいは探せば公演が打てるかもしれないし、コ・プロダクションに名前を連ねてくれる所が見つかる可能性もあるが、 何せシンガポールは小さいので、作品をアップデートしながら公演を重ねようと思うと、国外に出るほかない。
となると、KLやバンコク等がいくら近いと言っても、国際間のプロジェクトという事に即なってしまい、それだけマネージメント力も必要になってくる。その力というが技量が、シンガポールにはまだあまりちゃんと形成されていない感じ。日本だと、新国立劇場に当たる今回の会場であるエスプラナードでも状況は同じ。
まあでも、日本の新国立だって、新作を作ったら、それは国民の税金で作ったものだから、いちカンパニーがそれでツアーして金を儲けるなんてけしからん、みたいな理由で、セットやなんや全部即廃棄という事を平気でやっていたから(昔の話で、今は知らないけど)、あまり大差ないか・・・
その分、日本では、プライベートな制作会社が、個々でがんばってるし、交流基金や文化庁の助成がある分、ここよりは条件が良いのかもしれない。
とにかく、あと一回、がんばってきます。
Lighting for Noh Theater
シンガポールから帰国、何だか縁あって能舞台の照明をLEDでする事に。
急に降って湧いたような話だが、うまくスケジュールの合間に納まったというか、それこそ縁があったというしかない。
おかしいのは、23日(土)に、小学校一年生になった娘の初めての運動会があるのだけれど、このお能の公演は、22日(金)に「葵上」をやって、24日(日)に、「安達原」をやる。つまり、23日は公演がなくてお休み。長く生きてれば、こういう偶然はポツポツとあるけれど、そういう時には感謝してできるだけ無駄にしない。娘との約束も守れるし、仕事もできる。
詳細を聞いたことはないのだけれど、僕の母方の祖母は、僕が子どもの頃、夜になるとよく実家の座敷で、能の謡をうたいながら稽古をしていた。
ウチは、サザエさんと同じ形態で、父親が母の実家に同居していて、それで僕は祖母の稽古(か、もしくは趣味?)を、垣間見ていたわけだ。
時代が進むにつれて、謡はカセットテープで再生して、祖母はそれに合わせて動いていたから、あれは舞の稽古だったのかもしれない。
いずれにせよ、僕は能の謡と浪曲の区別すらつかないような状態で、日本の老人は、夜になったらああいう事をするもんだくらいにしか思っていなかった。祖母や祖父に、お能を観に連れて行ってもらったという記憶もないし、いまだにあれがなんだったのか確かな事は分からない。母親に聞けば、詳しく教えてくれるかもしれないが、その気もない。
でも、そういう事もあって、何となく興味はあったわけで、そこに降って湧いた話なので、いやもうヤルしかないでしょう。
というわけで、ここ数日、大阪天満橋と谷四近くにある「山本能楽堂」に通っています。
大学生から卒業してフリーターをしていた間(今でも、フリーターだけれど)、僕の季節毎の主な仕事の内には、京都の北野と先斗町と宮川町の歌舞練場の裏方というのがあって、歌舞伎の舞台構造を模した日本の劇場は、ずいぶんと慣れ親しんでいろいろ勉強させてもらったけれど、能舞台はほとんど知らない。
現代的な劇場の舞台上に所作台を敷いて、目付柱を立てて仮設の能舞台を作るというのは経験あるけれど、今回は屋内だけど本物の舞台です。
いやぁ、よく出来てます。付け入る隙がありません。演目によっては朝日のあたる早朝の野外で、生霊の出てくるような話は深夜に薪の炎の下で演れば、それでもうバッチグーでしょう。
そうなると、ぜんぜんこちらの出番がないので、屋内の能楽堂である事を笠に着て、窓やなんやかんや全部塞いで無理矢理暗転つくってもらって、LEDで外光を模させていただきます。
僕の仮構的なLED照明以外は、すべてホンマモンのお能の公演です。直近の告知ですが、興味のある方は是非おいで下さい。
詳しい情報(公演のフライヤー)は、こちら。
Aoino_ue
葵上@山本能楽堂、終了。
満員御礼。
LEDうんぬんというよりは、普段から能を観る事を楽しみにしておられるお客様なのだろう。
お話を聞いて納得したのだが、能楽堂はプライベートな所が公共施設より多いらしい。いわゆる「小劇場」もそうかもしれないが、日本の舞台の今まで意識していなかった一面。日本中に、どれくらい能楽堂ってあるんだろう?
知らなかったという事では、公演までのプロセスというか、そういうのもぜんぜん違う。
まず、舞台監督がいないし、オペレーションブースもない。
そりゃそうだ、謡も鳴り物もPA通さないし、照明に至ってはそもそもそれ自体存在しない。
15年ほど前に、ダムで「隅田川」の公演をサポートした時には、無理矢理頼んでリハーサルをやってもらったけれど、本来「能」では僕らがリハとして認識しているような事はしない。
「モウシアワセ」というのはあるらしいのだけれど、ゲネプロとか通しリハみたいな事をすると、かえってその公演の即興的な魅力が削がれるので、舞台はその時その場で毎回初めて挑む物らしい。なんか凄い。日々の稽古の積み重ねと、インプロの能力、両方が試されるわけだ。
前の時よりは少しは考えることが出来るようになったのか、僕の知っている舞台作品と能の構造的な違いが、とてもおもしろい。
まず、先日、能面をかけさせてもらって実感したのだが、周りなんて見えやしない。それでいて共演者がいないわけではなく、舞台上にはたくさんの人が上がっていて、それらのほとんどの人はシテ方が見える。面(おもて)をかけている主役だけが、極端に視覚を奪われているわけだ。で、もっともよく動く。
舞台装置等は、極端に簡略化されているけれど、物語自体がなくなってしまっているわけでもない。
逆に多層構造で、レイヤーが多いのだけれど、そのほとんどを謡の語り?(説明?)で済ませている。
物語の基礎構造は言葉で造って、最後に情念とか怨念とかそういう言語化しちゃうとただの説明になってしまうとこだけ、ピンポイントに舞台にあげてる感じ。あくまでも、僕の私的感想ですが・・・
なんかね、間違えないように稽古して稽古して、その成果を出来るだけ寸分違わず本番の舞台に上げるというのではなくて、「稽古して稽古して」は同じでも、それで毎回違う成果が出るように期待するというのは、健全な気もするし面白いとも思う。
何だか大人な感じ。
でも今回の照明は、プログラムして時間入れて動かしてるんだなぁ。他にどういう操作があり得るのか、考えてみると面白い気がするが、今回はタイムアウトか・・・今までと同じような作り方で、まずはゴアイサツ。
公演は、日曜もあります。「安達原」です。
葵上と違って、設定が野外から始まります。
お楽しみに。
Adachi_gahara
能に照明をつける試み、2日目「安達原」終了。
能では、常に前段というかこれまでの話の経過があり、それに続いて舞台が展開されるらしい。
今回僕が関わらせてもらった、「葵上」と「安達原」も例に漏れず、葵上では、六条御息所と光源氏の蜜月時代があり、そこに葵上が現れて源氏の関心を一身に集め、六条御息所は捨てられるという、それだけでハーレクイーンロマンス一冊分かという前振りがあり、それは周知の事実とした上で物語が始まる。
安達原では、まず「黒塚」という話があり、難病の娘を抱えた母親が、妊婦の生き肝を食べさせれば娘の病が治るときかされて(そんな事言う方も鬼畜だが)、肝を手に入れるべく外に出て荒れ野で妊婦の旅人が来るのを待つ。
やがてどのくらいの月日が経ったか分からないが、妊婦とおぼしき妻と夫の夫婦が通りかかり、都合の良い事に産気づいた妻のために薬草を採りに夫が山に行き、その間に母は妊婦を殺す。
と、妊婦の身に着けていたお守りが母の目に入るが、それは母が娘に与えた物だった・・・というギリシャ悲劇顔負けの話。
それで母親は完全に物狂い、さらに荒野深く分け入って鬼婆と化し、殺人マシーンとなり幾星霜・・・というところから、話が始まる。
つまり、固定客というか、集団的な合意としての構造があって、その上に物語が形成されている。しかも、タランティーノばりの鬼畜エンターティメント。僕けっこう「From Dusk Till Dawn」とか好きなんですけど、お能、負けてません。
そんな所に、照明という新しい演出をつけるとなると、緊張します。
だって、通になればなるほど、頭の中では情景が出来上がっているはず。売れた小説の映画化ほど難しい物はないでしょう。
最近では、ジャンルは違うけど「BECK」の映画化かな。音楽物を漫画で描いた傑作ですが、ビジュアル化しつつ音は一切聞こえない漫画だからこそ、「世界的に認知される日本のバンド」という物語を組上げられたのだけれど、映画にしたらその彼らの曲どうすんねん、という話ですね。
僕はまだ観てませんが(シンガポールにいたので)、映画監督は、あえていいますが、卑怯にも漫画と同じ手法を使ったようで、それはちょっと・・・。
となると、僕の解釈が、積み上げられて来たイメージとそれほど剥離がないことを願いつつ、自分のイメージをちゃんと照明で現出させていくしかないでしょう。
幸せな事に、今回は3日間時間があり、3日間というと短いようですが、通常のクリエーションなら、そのうちに振り付けや音や照明や舞台での全てのクリエーションがあるのだけれど、今回は照明のみ。山本能楽堂の能舞台、独占貸し切り状態。
舞台上に、公演の衣装を飾ってもらって、暗転中で一日ほぼ12時間照明のプログラムし放題の3日間でした。
しかも、僕が望むなら、もっとやっていいですよと言ってもらえました。こんな事は、滅多に無いです。たいていは、もうそろそろ・・・と言われます。
今回は、「今日はこんな所で勘弁したろ」と一人つぶやきつつ、自分から終了して帰る毎日。
楽しかったです。
ということで、またそのうち機会があるかもしれません。
あったらいいなぁ、ということで、とりあえず無事終了。
Rikuri to shite
「陸離」、知らない日本語です。
最初に聞いた時には、造語かと思ってしまった。でも、それでも、字面だけではどういう意味だか分かんない。
しかも、字面からでは伺い知れないような意味がある、れっきとした日本語で、辞書を引くとちゃんと下記のような説明が出てくる。
りく‐り【陸離】
〘ト•タル〙〘形動タリ〙美しく光りきらめくさま。「—として光彩を放つ」
なかなか美しい。
何だろう、夜の海に漕ぎ出して、少し離れたところから、都市の明かりを見ているような事なのだろうか?
それとも、中国の故事とかに関係あるのか?
いずれにせよ、そういうタイトルの展覧会に参加します。
詳細はこちら。
http://www.cpue.org/2010/index.html