「声を失う」 – といっても,何かにあきれたわけではない,
10月14日の夜に飛行機に乗り,15日朝にBrisbaneに到着.空港のシステムがすごく分かりにくい上に,フライトが遅れて乗り継ぎ便を逃し,予定より2時間後の便でMelbourneに到着.その頃にはもう,咽がいがらくて風邪の兆候があったのだが,ちょっと無理をしてBelgiumから来たパフォーマンスを1本観劇.無理をしてでも観て良かった!といえる面白い物だったが,移り気な春の寒さのせいもあって体調はどんどん下降.翌朝起きた時点で,僕の声は自分の物とは思えないがらがら声に.
しかし,それはVoyageの仕込み初日のことである.初日の午後からは.照明のフォーカスがメイン,何が何でも大きな声で喋らなければならぬ.
常用している風邪薬と,いくつか携帯してきたホメオパシーのレメディーをちゃんぽん.そのかいあってか,別に熱も出ず咳もそれほどではなく,咽の痛みも不思議とないのだけれど,夕方以降にはほとんど話せなくなってしまった.
おしゃべりはどちらかというと苦手なほうだし,別に普段はそんなに話せなくても困らない気がするが,舞台仕込みの真っ最中となると,話はまったく別である.困ったというか情けないというか,何か自分が悪いような感覚に捕らわれる.
僕の敬愛するルポライターに,「AV女優」というタイトルの,まさしく日本のアダルトビデオの女優さん達にインタビューして歩いた大著をものしている,永沢光雄さんという方がいる.その彼が喉頭ガンで声を失くしてからあとの自伝というかエッセイがあり,それがなんというか,まったく泣けてくる,でも生きようという気になるとてもいい本なのだけれど,その本の事が無性に思い出された.
もっとも,僕の状況はただの風邪だが...
もしくは,最近読んだ失語症の話.周りの状況は,完璧に理解しているのに,ただそれが話せないというだけで,どこにも伝わらない.そのもどかしさ,ふがいなさのせいで,つい自分を責めてしまうという...
幸いな事に,一晩寝たら,声はある程度戻ってきた.今まで長く生きてきて,こんな体験は初めてである.ぎっくり腰をやったときもそうだが,無くしてみて初めて,それがどんなに得難いモノだったかが分かる.いやそんな,たいしたこっちゃないんですけどね...でも,発話できるというのは,すごいなと.
Melbourneの春は,日々の寒暖の差が激しくて,昨日は凍えるようだったのに,今日は一気に春めいて気持ちのいい気候です.
Melbourne 2
公演は,無事に終了.
寒暖の差が極端な,気まぐれな天候のせいか,最後まで風邪は全快しなかったが,公演自体はうまくいったと思う.
前回memorandumで,同じこのフェスに来た時には,Forumという大箱のナイトクラブのような場所で,舞台の前3分の2くらいを仮設,天井部もトラスを吊り込むという,まず会場を作るのに一大労力を費やすという状況だった.しかし,今回はアートセンターの中の使いやすい劇場で,スタッフもバリバリ動くし,音響・照明機材も十分という恵まれた環境.3日間3回の公演共に,お客さんもほぼ満員で,何不自由なかった.
でも,それだけ恵まれているのに,天の邪鬼なのか風邪のせいか,何だかどうも街に馴染めない.Australia全体を知ってるわけじゃないし,今いるMelbourneだって,よく知らない.そんなぼくが言うのもなんだが,どうも不思議な感覚がつきまとう.そのわだかまりをつらつらと考えていて浮かんだのが,何だかシェルターの中にいるような,という感じだった.きっと入国時のチェックの厳しさや(Australiaは独自の自然環境を守るために,外からのいろいろな物の持ち込みを厳しく管理している),きわめて効率良く,誰にでも分かるように設定されたルールやなんやかやが,単純にぼくの思い込みを作っているだけだろうが,どうもなんだかやんわりとすべてが管理されている場所のように感じる.
もちろんここだって,駅前に行けば,行き場のない時間を持て余した若者がたむろしているし,ゴミだらけの路地もある.それに管理といったって,オーウェルの世界みたいに,悪意のあるビック・ブラザーが一挙手一頭足を見張ってるというのでもない.でも,何だか「後が無い」感じがするのだ.
シェルターの中は居心地がいい,安全だし行き届いている.でもそれは裏を返せば,外は大変だという事だ.シェルターは,外部が非常事態になってこそ,意味がある.
まだ,たぶん外もここも,そんなに違いはないと思う.まだ,別にここはシェルターではないのかもしれない.すべてが人工的な気がするのは,Australiaの強力な大自然に対抗して,自然に街がそういう発達をしているからかもしれない.でも,何だかね,外からの訪問者としては,そんな気がしたわけだ.
もっとも,日本だって外部に閉じてるのは,ここ以上かもしれないけど...
今日の午後は,Robert Wilsonの新作,I La Galigoを観劇.これまでにも確か2本別の作品を観た事があるが,生まれて初めて一秒も微睡みもせず,途中退場もなしで3時間に及ぶRobert Wilson作品を観た.シンガポールのEsplanadeがコプロダクションで参加し初演もしたこの作品は,インドネシアから50人強に及ぶダンサー・シンガー・語り部・ミュージシャンを連れてきておこなう一大神話絵巻.何度も繰り広げられる,上手から下手に流れる神話的な行列といい,いかにも絵巻っぽい.Robert Wilson/西洋(?)の視線で残虐シーンも口当たりよく編集された演出と,美しくデザインされた照明.3時間途切れる事のない,インドネシアン・ミュージシャンによるヴォイスと演奏.大変な労力を使った,綺麗な作品でした.それだけといえば,それだけだけど.
今晩,あと一本作品を観て,明日は帰国.
写真は,舞台でミーティングするダム・メンバー,使いやすかったPlayhouseのステージ,今回もっとも強力でかっこよかった劇場の搬入リフト.何とMAX25トンの稼働重量,Voyageの機材がトラックごと楽々と上がっていく.そして,melubourneの地下鉄.
Melbourne 3
10月23日に無事帰国.
今回印象に残った公演を,忘れないうちに記録.
“Tragedia Endogonidia BR.#4” : “Societas Raffaello Sanzio” from Brussels present.
Directied by Romeo Castellucci.
今回観た中では,もっとも秀逸.
三方が,見た目は大理石プレートの高い壁に囲まれた舞台.なので袖がないので,転換時はいちいち割り緞帳が閉まる.でも,その閉まった,たぶん持ち込みの白い緞帳を使って,遮られて見えない舞台中がめちゃくちゃ明るくなっているような光の演出もあり,すべての要素をうまく利用している.
抽象的な,その何もない舞台に,最低限の要素を置いて,幻想的でインパクトの強い舞台をものしている.
次々と,新しい可能性のある舞台は出てくるが,それをいち早くオーストラリアまで喚んでしまうこのフェスは凄い.それに毎年だし...
とにかく,光の使い方が良かった.機材をチェックしたわけじゃないけれど,HMIと通常の舞台照明と蛍光灯,それにビデオプロジェクターも照明の一種としてうまく扱っていた.それらと,マジックでも使えそうな道具を駆使した舞台装置をあわせて,映画ばりの,つまり目前の舞台でリアルタイムに,普通だったら目視するのは不可能なような効果を,うまい事現実化してました.
“the 51st(dream) state” : Sekou Sundiata.
こっちは,超クール.
このSekou Sundiataというおっちゃんは詩人らしい.舞台上は映像や通常照明に加えてストロボなんかも効果に使い,4人のこれまた恰好良いコーラスガールとドラム・ウッドベース・キーボードと,何やらその筋では有名そうなホーンのおっちゃんを加えたバンドもSekou Sundiataと一緒に舞台に立つ.
4人のコーラスは,それぞれソロでも歌い,バイオリンも弾く東洋系(たぶんベトナム人だと思ってたら,名前は中国系)と,NYのハーレムでゴスペル歌ってそうな弾丸ねーちゃん,中東の香りぷんぷんの美人さんに,南アメリカ出身ぽいグラマラスなおねーさんと,よくぞ揃えたマルチ・カルチャラルな美人揃い.みんな歌唱力抜群.
しかし,その強力なバンドのパワーも全体の半分程度に抑えて,メインはSekou Sundiata氏自身の詩の朗読に比重があるところが,ものすごく渋い.しかも,当然ながらそれがうまい.
といっても,その流暢な英語と多彩な発話の表現,早口言葉も真っ青なスピードに,ほとんど一言も言葉の内容は分かりませんでした.まあ,何について喋ってるかくらいは,何となく見当付いたんですが...
それでも,その全体の構成には,ものすごく感服.
映像も自由に使えるだろうし,ミュージシャンもすごくうまくて,舞台要素(音響・照明を含む)もよくデザインされてて,優秀なスタッフがいる事が分かる.それらをうまくコントロールしながら,あくまでもメインは詩人本人の朗読に比重を置くというのは,実際に作るとなったら相当難しい.だって,ある程度は,何でも出来るし,それで誤魔化したくなる.
う〜ん,大人な感じ.
しかし,こういう内容になると,全然言葉についていけない,自分の英語力が恨めしい.