ちょうど年が明けて2005年,まあこんな事を始めてみようかというのには,いちおう訳がある.
今月2005年1月9日から3月初めまで,香港で暮らすことになっている.
いつも作品を作っているメンバーとは違う顔ぶれで,いつもとは違う場所での制作である.
これは楽しみ.でも不安でもある.
香港での2ヶ月.その後そのまま別の作品でのフランス・ツアーも予定されていて,日本に帰るのは4月半ばの予定.
で,どれだけ続くかは分からないけれど,記録でもつけてみようかな,と始めてみたわけです.
いつまで続くかわかんないけどね.
Title
Every dog has his day を Google でサーチすると,日本語のページだけで3つくらいあった.
ありふれた慣用句だから無理もないか.
でも面白いのはその解釈で,たぶん一番近い日本の諺は「犬も歩けば棒に当たる」だと思うけれど,手持ちの電子辞書では意味を意訳して「生きてりゃいつかはいいこともある」[リーダーズ英和辞典第2版]と出ていた.
「晴れの日もある」というサブタイトルが付いているサイトもあって,これは付けた本人にとっては訳のつもりなのかどうか分からないけれど,すごく良いと思う.
僕はなぜだかずっと,「一寸の虫にも五分の魂」だと思ってた.これもあながち間違いではないと思うんだけどなぁ...前に並んだ訳とは全然違うけれど,犬の矜持に共感していたというか,何というか...
日本語から調べてみたら,「A fly even has its anger.」とでていた.でもこれどっちかというと,日本文を英語に直訳したような気がするんですが.
まあ,ネイティヴに聞いたわけではないから分からないけれど,でも尋ねるといっても,意味を別の英語で言い直してもらうわけだから,その解釈次第で色々な意味にとれるし,結局は当事者の心持ち次第か.
別に個人の造語でもないし,タイトルはこのままにしておきましょう.
ちなみにいろいろ調べて,僕がこのタイトルに採用した時の気分に一番近い訳は,「生きてりゃいつかはいいこともある」かな.
Little Prince Hamlet

明後日には出発である.
約2ヶ月の滞在製作というのは,いままでで2番目に長い.
最も長い滞在は,SwedenのMalmoというコペンハーゲンの対岸の都市で,約3ヶ月ほど住んだことがある.
でもあとはたいてい,滞在製作でも長くて3週間,普通のツアー公演なら1〜2週間もない.
長期に一カ所で生活できるのは,たいていどんな場所でも面白い.しかも香港.非常に楽しみである.
でも,心残りもあって,このページの上に貼っ付けてある写真の娘と,しばらく会えないのはつらい.
可愛いさかりなのよ.犬ころみたいに足をバタバタさして,後付いてきます.
ところで,本題の香港滞在製作.
香港のダンサーDaniel Yeungが立てたプロジェクトで,インドネシア・マレーシア・香港・日本のダンサー各1名ずつと韓国のミュージシャンと僕で共同製作を行う.
詳しくは,下記参照.
期間が長いし,まあ香港ならたいていのモノは揃うだろうし,なければ日本から送ってもらうことも可能だ.
そう思ったら,あまり準備する気になれず,ずるずると今日に至っている.
いちおう「星の王子様」と「ハムレット」の日本語版は買いました.
Back and Go
St Medardの公演は,ちょっと変わっていたものの,無事終了.
600席程度の劇場だったんだけど,そのうち200人程度が小中学生.まあ,おおよそ8割が小学生高学年程度.
劇場が,国立だったのも関係していると思うが,ボルドーから大量に団体鑑賞で参加.
最初はどうなることかと思ったけれど,これが案外ちゃんと楽しんでくれて,こちらもオペレートしていて面白かった.
なんせ,目の前にも彼等が座っていて,大きな音が鳴ると飛び上がったりクスクス笑ったり,反応がダイレクトにわかる.
もっとも,普通の?観客はずいぶん戸惑っだろう. でもまあちょっと「シッー(静かに)」という声が聞こえたものの,それ以外は周りさえ見回さなければ,別に問題なかったと思う.
終了後は,バラしてパッキング,トラック積み込み.
その後,小さな町で深夜に開いている店はないからと,今回からツアーに参加してくれたフランス人スタッフが,わざわざ用意してくれた,ケイタリングのクスクスとワインで遅い食事と乾杯.バラシの後にまともに食事できることは珍しいので,かなり満足.
翌朝,まだワインの酔いが残っているままに,ボルドー空港へ.
僕はみんなと違うフライトなので,チェックインカウンターで別れてロンドンへ. もともと日本からの繋ぎは良くないフライトなので,ロンドン_ガトウィック空港からヒースロウ,それから香港で関空へと,各トランジットで4〜5時間待ち.行きよりはましかと,G4を開けては細々した用事を済ませつつ,24時間後くらいに日本着.
いまもまだ帰国中だけれど,とにかくほぼ全日子供の世話.
面白い.
自分の子だから,特別そう感じているのかも知れないが...
来週火曜からは,パリへ.
今度は去年作ったRefined Colorsの公演. EU初舞台.
In and Out

早朝6時50分のフライトでストックホルムからパリへ飛び,空港で4時間半待って日本へ.
まだ桜が咲いていて,しかも良い天気.美しいなぁ.
でも夜には花粉症で鼻がずるずるいいはじめる.グァバ茶を飲んだら,だいぶんましになった.
ちょっと愚痴.
CDG空港の,ゲートが並んでいる箱船のような巨大な空間で,待つことに厭きたのか日本のおばちゃん達が,宴会芸のようなことをやりながら,ぎゃはぎゃは騒いでいた.楽しそうなのは悪い事じゃないし,別にじーっと大人しく座っていなきゃいけないわけでもない.たまのバケーションだしね.
でもねオバチャン,あなた達だって日本では,周りを一切気にかけずに一心不乱に地下鉄の中で化粧する娘さんや,通行人を気にせずコンビニの前に座り込む少年達に眉ひそめてない?
何で,言葉が違ったり自分があまり来ないような場所だと,周りの人を人とも思わなくなるかなぁ?
帰ってテレビをつけたら,北京の対日デモのことばかり目についた.
確かに,あまりいい気はしない.でも,彼等がなぜ怒っているかについては,通り一遍の説明だけで,よく分からない.どうも日本のメディアは,「理不尽なデモ」という印象を,僕たちに与えたがっている感じを受ける.
他にも韓国との「島」の問題や,その他色々なことが一気に出てきてるけど,なんだかなぁ.
「周りは敵だらけ」って印象を強くして,「自衛隊をきちんと軍隊にしよう」という方向に世論を持っていきたい人達が,アメリカのネオコンみたいに,日本政府の何処かに存在してるんじゃない?
Demolition
11日に帰国してから,既に2週間近い.
何度か更新を試みたのだが,酔いや眠気に負けて断念.
この期間,ほぼ毎日,僕の生家であり30数年過ごした家に通っていた.
去年末に祖母が他界し,その関係で売却され取り壊されることになったのだ.
建築後80年近く経った家で,無くなるのは残念だけれど,僕のモノではないのでどうしようもない.
せめて,再利用できるモノはと,たまたまこれから自宅の建築予定のある友人に建具や床板や階段のパーツなどをもらってもらい,僕自身も廊下の床板や,庭木の一部などを移し替えて持ち帰った.
祖父が,面白い趣味の庭いじりをしていて,あの家には色々な木々が植わっていた.その多くが「食べれる」モノだった.
記憶にある限り,時系列を重ねて羅列すると,南の玄関から入って時計回りに,まず笹に南天,それから柘榴・椿・棕櫚・芭蕉と続き,西に回ってグミ・夏蜜柑・妹の名前の由来になった山桜桃・母の名前の杏(杏子が母親の名前)・鬼胡桃の木があった,そこから北に回って,また棕櫚の木があって東の庭に抜けて,今度は食べられる胡桃の木が2本・それがあまりに高く育って倒れると危険だからと伐採してからは合歓木が植えられ,次に無花果・柿・山桜桃・椿・百日紅で一周して南側の玄関に戻った.
こじつけかも知れないが,ずいぶん後になってからチュニジアのサハラ砂漠で,ナツメヤシの群生するオアシスの中,高い木立の下に柘榴や無花果やバナナ(芭蕉に似ている)が植えられているのを見て,ひょっとして祖父はこの風景を何かで見たことがあったんじゃないかと,その類似性に驚いたことがある.
あと、とにかく,階段や廊下の板をはがすだけで,住処を建てることの大変さを実感.大工の棟梁の数だけ,様々な工夫や技があるのだ.
「建築物ウクレレ化保存計画」で,制作のために話を聞き取りに来てくれた伊達君に,「あまり建物には愛着がないの,庭木はどうにか出来ないかと,それは考えているのだけれど...」と言った母の言葉が,印象に残った.
離れて9年ほど経つ実家ではあるが,無くなるのは残念である.
まあせめて,その最後に立ち会えたのが,幸運としよう.
実際,まだメールがなかった頃,僕は長い公演ツアーから帰って,地下鉄の駅から出て家に向かうたびに,この数ヶ月の間に跡形もなく家が無くなっているんじゃないかと,何度も想像したものだった.
おととい土地建物の引き渡しで,今日改めて様子を見に行くと,既にパワーシャベルが入っていた.
百日紅と柘榴の木は,まだ立っていた.
Corridor
花粉症の時期も過ぎ,気持ちの良い日々が続いている.
打ち合わせに数日出かけたが,あとはほとんど自宅で仕事をする日々.普段あまり会わないマンションの住人に出会う機会が多くなり,昨日はとうとう「仕事オヤスミですか?」と訝しげに尋ねられた.すいません,ぶらぶらしていて...
前に実家の解体の話を書いたが,その時に一番感心したのがこれ.(真ん中の写真)
何かというと,これは廊下の板の一番端を,下から掛け金のように引っかけていたモノである.名称は不明.
古い家だったので,まだフローリングのように組み木にする構造が無く,この廊下の板はネタ(構造を支える桟)の上に,表に出ないように斜めに釘で打ち付けてあった.(余談だがわりと長い廊下で,測ってみたら繋ぎ目無しで5.6mの材が使われていた.珍しいので何とかそのまま残せないかと思ったのだけれど,それほど数があるわけでもなく運ぶのも大変なので,やもなく半分に切断.)
で,この廊下を桟に打ち付けるには,写真の向かって左から板の側面と桟を釘で縫っていく.右利きの大工さんである.だがもうその作業の時には壁が立っているので,最後の3枚程度は右手に立つ壁との距離が近すぎて,思うように金槌が使えない.
たぶんそういう理由で,最後の3枚は大工さんが床下に潜り,この掛け金状のモノで床板を桟に固定していった模様.これが,その時の通常の工法なのかどうかは,僕には分からないが,一緒に解体を手伝ってくれた鉄職人の友人も僕も初めて見るものだった.
こういう細かな技がいろいろ発明されては,忘れ去られていくのかと実感.
結局,人の足が80年間近く磨き続けた廊下の板は,自宅の床に設置.木ネジを十数本使ったので,大家さんに見つかったら怒られるかもしれない.トップシークレットです.
Vacant land

14日(土)・15日(日)と7月初めに公演する作品の打ち合わせに,山口に行ってきた.今月初めにも4日間ミーティングと実験のためにYCAM(山口情報芸術センター)に滞在していたが,今回はその追加ミーティング.
YCAMでは公演の合間を縫って,7月の作品のために実験をしてくれていて,実際の公演場所に仮のセットを組んだり,システムチャートを考えたりと,着々と準備が進んでいる.
単なる公演会場というのではまったくなく,ソフト・ハードの両面で,作品制作のパートナーという感じ.
プロジェクト自体のサイトは今制作中だが,簡単な告知は既にYCAMサイトに上がっている.興味のある方は見てみて下さい.
https://www.ycam.jp/archive/works/path/
ところでこの帰国中,おもに関わっていた実家の件だが,この前思い立って見に行ったら,何とも綺麗さっぱりさっさと更地になっていた.
あっけないもんだ,とはよく聞く弁だが,本当に家の最後というのも(人の最期と同じように),あっけないもんである.
このまっ平らになったスペースの上で,何人の時間がどれだけ交差したことか.
いろんな思いが絡み合ったのだろうけれど,もうその記憶は微塵も感じられない.
この場所の持ち主だった祖父は,晩年呆けて最後はここから歩いて10分程度の病院で息を引き取った.
葬式はここに建っていた家で行ったのだが,そのためには当然病院からここまで祖父を連れて帰ってこなければいけない.
何を使って,もう死んでしまった身体を運ぶのか.これは案外問題である.普通は車だろうが,でもそれは霊柩車でも救急車でもない.そういう特別な車があるにはあるのだが,わざわざ来てもらうには,家はほんの鼻先である.
かといって普通の車に乗せようとしても,とにかく相手はもう死んでいるので,身体が硬くなっていて,簡単にヨイショと折り曲げて,車の後部座席に座らせるわけにも行かない.本当に,こういう状況に陥った他の人はどうしているのか,聞きたいくらいであるが,その時にはそんな余裕もなかった.(ついでに携帯も持っていなかった.)
それで,その場にいた僕と父親は,ちゃんと病院の許可を得て,10分足らずの道のりを,可動寝台の上に祖父を乗せて,ゴロゴロとアスファルトの上を手動で押し帰ることにした.
時間はたぶん深夜近かったと思う.まあ,そりゃそうだろう,真っ昼間にのほほんと死体を運んでいるのは,どう考えてもまずい.もし誰かに出会ったら,どちらも災難である.
それでまあ,結局誰にも出会わず,夜中に僕らは祖父の死体を載せた寝台を押して,病院からこの場所まで移動した.確か病院の看護婦さんか誰かも,横について来てくれた記憶がある.
家の玄関は石段を5段上がらなければいけなくて,そこからは遺体を担いでいった.晴れた夜だった.
すごく特別なことのような気がするが,案外誰もが同じような経験をしているのかもしれない.
不思議なことに,その後十数年間あまり祖父の後を受けて家を守っていた祖母が,あのときどうしていたのか,どうしても思い出せない.悲しみに暮れて,何処かに引き籠もっていたんだろうか.