12月6日で娘が3歳になった.
いやいやなんともめでたい.よく無事で育ったもんだ.
こんなに嬉しい事はない.
写真は,卵や牛乳を使っていないケーキを前にする娘.粟餅生地のケーキ台に,サツマイモのクリーム.苺やブルーベリーも爽やかで,非常に美味しい.
ラッキーな事に,近くにある生チョコレートを出すオーガニック・ティハウスのシェフ/パティシエさんが,アレルギー対応のケーキを作って下さる.これが確実に年々進化している.写真のケーキも,去年のものより美味しくなっている.
A public office
役人は,どうもコソコソしている,間違いを認めない,狡いというイメージがありますなぁ.
マイミクのこ〜にょさんが,mixy内の日記で役所とのもめ事を書いているのに触発されて,僕もちょっと最近の出来事を...もっとも,マイミクさんほどシリアスな話ではないですが.
先日,左京区役所へ行きました.11月末で僕の保険証の期限が切れたのに,新しいのが届いていなかったからです.もう12月を1週間は過ぎた頃です.
で,窓口で尋ねると,まるでパートで働いているような気楽さのおばさん(でも当然公務員)が,ああそうですかという感じで奥へ行き,僕の新しい保険証を持って来ました.何でも,11月15日に書き留めで配達に行ったが,留守だったので持って帰り,そのまま郵便局での預かり期限が切れたので,区役所に戻っていたとの事.
役所に戻ってきてその辺に保管され,前の保険証の期限が切れれば,その持ち主が困るのは当たり前,「保険証が届けられずに戻ってきてますよ.」というようなお知らせは送らないのですか?と聞くと,窓口のおばさんは「上司に聞いてきます.」と席を外す.で,「配達に伺った15日に,その旨を書いた文書を投函しているはずです.」という.
それはそうかもしれませんが,その頃僕は仕事で海外に出ていて,帰った時にはそのお知らせは,山のような郵便物に埋もれてしまって,目に留まらなかったのかもしれません.もしかしたら,何かの間違いでお知らせ自体がポストに入っていなかったという事もありますよね,と言うと,窓口の人は「配達時に,お知らせをポストに入れているはずです.」と繰り返す.
いやそうじゃなくて,新しい保険証が配達されずに戻ってきて,古いものの期限が切れたら,その持ち主は困るでしょう.その時に,新しいのが役所に戻ってきてますよ,というお知らせは送らないのですか?と尋ねると,「配達時に,お知らせをポストに入れているはずです.」と繰り返す.
何度か,いやそうじゃなくて,知らぬ間に保険証の期限が切れて,新しいのが届かなくて,その理由がわからなくて,なかなか役所に来る時間がとれない人は困るでしょう.と説明を繰り返すが,おばさんは,「配達時のお知らせがその書類です」と「上司に聞いてきます」を繰り返す.
2〜3回繰り返して,僕の根負け.時間の無駄だと思って,捨て台詞を残して退散した.
ここまでは,たぶんよくある話.
吃驚したのは,その2日後に,ペラペラのわら半紙に刷ったお知らせが入った封筒が,役所から届いた.
内容は,「あなたの保険証が,受け取り人不在で役所に戻ってきています.」というもの.
これは,一般的なものなんだろうか?
たまたま,このタイミングで送られてきた?
あの窓口のおばさんが,「そんなもの,ありません.」と言っていたに等しいお知らせだが,実際は存在したんだろうか?
すごくややこしい人に思われて,これ以上面倒にならないように,急きょ作られた?
役所にどう思われようと,知ったこっちゃないが,もし向こうがこっちを気にしているとなると,ちょっと気になる.
役所って,当たり前の話だけど,こっちの個人情報をかなり握ってるわけで,そこで働くスタッフが全員,滅私奉公で公に奉仕する善人なんていう事は,今どき誰も信じちゃいないだろう.
でも,実際に役所がこっちに向かって目を向けたかもと感じるのは,ちょっと気持ちの悪いものである.
Water of the house project
12月15日(金):
京都芸術センターで,モノクロームサーカスの「水の家」 projectを観る.
もちろん,一緒にRefined Colorsをやっているからという贔屓目はあると思うが,かなり良かった.
モノクロームサーカス(以下MCと表記)の作品は,実はそんなにたくさん観ていない,記憶に残っている限りでは,「収穫祭」を黒谷でやっているのに遊びに行った事があって,次は芸術センターでの「大収穫祭」,そしてRefined Colorsの最初の打ち合わせに行った,カフェ・アンデパンダンでの公演くらいだと思う.
それから思うと今回の作品群は,良い意味で,ずいぶんと様変わりしたダンス作品になっている.
もともと,なぜRefined Colorsを,MCのディレクターである坂本君と作ろうと思ったかというと,「大収穫祭」を観た時に,彼の作品に対する柔軟性とでもいうべきものに,魅かれたからである.
僕の勝手な印象で書くと,ダンスの人は,「してはいけない/できない」とでも言うべき事を結構抱え込んでいて,その「いけない」を,わざわざ自分で設定しておきながら,再度自分で壊そうとしているような所がある.でもそれは,自分で勝手に,「してはいけない」と思い込んだモノなのだ.
モノクロームサーカス/坂本氏には,そういう自己規制が,あまり無いように見えた.なので,ずいぶんテクニカル寄りな,僕の発想から始まる作品の構想にも,答えてくれるんじゃないかと思ったわけです.
今日観た,「水の家」 projectのどこが良かったかというと,時間に関しても,その自己規制を取り払った自由さがあって,「好きなように作って,出来た時間が作品の時間」という,まあ当たり前といえばそうなのだが,その確信の上に実在する事になった,「凛々しさ」を感じる作品群だった.
必要な時間だけ切り取って編集されたようなダンスは,ある種のストイシズムに溢れていて,それがこのプロジェクトの魅力に繋がっている.
もし,明日時間のある人は,ぜひ行って観てみて下さい.
■日時
12月
15日(金) 19:30 (A)
16日(土) 14:00 (B) 18:00 (A)
17日(日) 14:00 (B)
■会場 京都芸術センター・フリースペース
■出演者
「水の家」
演出・振付:坂本公成, 振付・ダンス:森裕子+森川弘和
「怪物」
演出・振付:坂本公成, 振付・ダンス:佐伯有香, 音響:真鍋大度
「最後の微笑」
演出・振付:坂本公成+ディディエ・テロン, 音響:真鍋大度
振付・ダンス:
森裕子+佐伯有香+荻野ちよ+森川弘和(A)
森裕子+佐伯有香+荻野ちよ+合田有紀(B)
Fever again
娘が熱を出したので,忘年会は軒並みキャンセル.
折しも,王子動物園に大熊猫を見に行こうと約束していた,その前日の事.
娘は保育園では,チューリップ組のパンダさんである.
なんじゃそりゃ?と初めて聞いた時には思ったものだが,子供と一緒に暮らしてみて初めて納得,乳児・幼児は字が読めない.「そんなこと当たり前じゃん」と思う向きもあろうが,理屈ではわかっていても,これは案外大変なんである.保育園には,当然うじゃうじゃと同じ年頃の子供達がいて,彼/彼女等はおんなじような服や寝巻きやタオルやその他持ち物を持っている.保母・保父さんは名前が読めるが,子供達には類似品の中から自分の物を見つけ出す「タグ」が必要なんである.
その為の動物マークは,親が任意で早い者勝ちで選ぶわけだが,娘の場合はそれがパンダ.
そんなどうでもいいようなアイコンだが,人の幼児期の刷り込みの強さは何だか凄くて,娘はパンダに目がない.とにかく,無条件のパンダ・ファン.熊も好きだがパンダは特別.象も好きだがパンダは特別.キリンも好きだが...
そんなにパンダが好きになって,将来の生活に支障はないのかと,少し心配になる...(嘘)
子供が産まれると,自分の過去を追体験できる.
まったくもって記憶の底に埋もれていたような事柄が,時系列に関わりなくポッカリと浮かび上がってくる.
全裸のような剥き出しの悔しさや,底抜けの喜びが,その時の強力な印象と共に浮かび上がる.
どうして忘れていたのだろう,と思うような強い感情が,後々の日々の雑事に埋もれているのだ.
彼女の毎日は,何故?の連続である.
写真は,熱でぼぅとしている彼女.
ちなみに,娘は大の写真嫌いである.知人に,このブログに載せている写真の彼女は,いつも難しい顔をしているといわれたが,別に娘が笑わないわけではない,カメラを向けられるのが,恥ずかしいんだか,嬉しくないんだか,何だかそういう感情があるのだ.
The brain
年の瀬で,ようやく溜まっていた雑事も一段落,日本の社会的にも休暇ムードが高まって,メールの数も激減.この機会に,机まわりの大掃除に着手し,あわせて平積みになっていた未読の本を読み始める.
そして,Michael S. Gazzaniga著「脳のなかの倫理—脳倫理学序説」と,中田力著「脳の中の水分子」を,ようやく読み終えた.
カタカナ表記ではガザニガさんと書かれているGazzanigaは,2001年にアメリカ合衆国の大統領生命倫理評議会のメンバーに選ばれた,古参の脳機能研究の専門家.ブッシュの評議会のメンバーかいと思いきや,とても現実的に「科学」の立場から倫理学にアプローチした,好感の持てる内容.
特に,人間の「信念」が如何にさしたる根拠もなく形成されるかと,直感的な道徳的判断(例えば,他人をむやみに殺してはいけないとか)は人類にほぼ共通するものだが、その解釈や理由付けが文化や個人によって異なるのだというくだりは,当たり前の事なんだけど,こういうポジションの人の発言としては秀逸.
まあ,その意見が自分の思うように現実に反映されてれば,本なんか書かないんだろうが,読むほうとしては分かりやすく現在の状況が,医学的専門家の視点で整理されている好著.
一方の中田力さんは,日本の文部省学術審議会により,中核的研究拠点のプロジェクトリーダー(何のこっちゃか,分からなさ過ぎ)に選ばれた,新潟大学統合脳機能研究センターの設立者.また,MRIやその進化系のfMRIという,今では当たり前になった,生体の状況をその本体を傷める事なしに観察できるようにした装置の開発者として,その筋では有名な専門家.
この人の心のお師匠さんというべき人が,ライナス・ポーリング博士という,ノーベル賞を2つも(化学賞と平和賞)もらった凄い人で,そのついに直接会う事の無かったポーリング博士の仮説との出会いが,中田さんの思考のエンジンとなって,如何に「脳と心/(意識)」の研究に発展していったかという話し.
これがまあ,探偵小説でも読むかのように,スリリングで面白い.
ある種の天才,とまでは言わないまでも達人には,人間的な余裕があって,自分のまわりの状況を苦境も含めて全て楽しんでいるように見受けられる事がある.まあこれは,回想として語られるからそうなのかもしれないが,そのあらゆる状況を楽しみつつ次へと向かうポジティブな思考の発展が,少々小難しい理論のパートも読み進めさせてくれる.
これがこの中田さんの最新刊なのだが,読み終えたらもうすぐに既刊の全二冊,「脳の方程式いち・たす・いち」と「脳の方程式 ぷらす・あるふぁ」が読みたくなってしまった.
Old people IT
母親の所に,妹の所からe-macが戻ってきた.
少々邪魔臭い話しだが,数年前に両親の住み家にADSLをひいて,コンピューターを設置した.父親は会社の仕事でPCを使っていたし,僕はe-mailでのコンタクトが一番確実な生活の体制だし,何より妻の出産があって,そのすぐ後に妻と娘は僕の実家に身を寄せていたので,連絡用として実家のe-macは役に立った.ところが,僕たちが自分の家に戻ってしまうと,そのe-macを僕の父はうまく使えなかったようだ.
今から考えると,まあそれも無理ない.Win機しか使った事のない高齢者としては,自宅はMacで会社はPCという環境は,手に余っただろう.
そんな状況もあって,ある日,関東に住む妹が遊びに来た折りに,そのe-macを持って帰ってしまった.これはどうも,父親がそう仕向けたっぽい.今となっては,その父が他界しているので詳細はわからないが,とにかく母1人の所へこの正月にそのe-macが戻ってきた.何でも,妹の所は新しいMacを買うのだそうだ.
それでまあ,事情はどうあれ,新居に移って一人暮らしを謳歌している(ように見える)母親の所にコンピューターがあって,ネットに繋がっていれば,こちらとしても都合がいい.何といっても,母は僕の家から歩いて数分の所に住み,子供を預ける事も多い.食事も,一週間に数回はどちらかの家で一緒にとる,なかなか良い状況なのだ.僕が仕事で外に出た時も,自宅と母親宅の両方にリモートでアクセスできるほうが,何かと都合がいい.
なのでこの正月の時間がある時に,母親宅をADSL回線にしプロバイダーと契約し,ついでに妻と母と僕の携帯もsoftbankに統一し,ネットと携帯環境を整える事に.僕が国内にいる時は携帯で,海外からはSkypeで,お得なコミュニケーション環境を作ろうという目論見である.
ところがこれが,なかなか大変.
ある程度,ネット環境が広がり終えた日本の状況としては,いかに今まで親和性の低かった対象者をユーザーとしてインターネットに繋げていくかというのが課題だと思うのだが,そこんとこ全然出来てません.
いったんネットに入ると,それなりに高齢者に対する配慮が各種プロバイダーにも散見されるし,MacのOSでも使いやすいインターフェイスを提供しようという意識はある.携帯電話機だって,字を大きくする機能は結構付いている.
しかぁし!しかし,いざ新規にどこかのプロバイダーと契約しようとすると,また,番号そのままで新たな携帯電話会社に乗り換えようとすると,そこには何だかワケノワカラナイうじゃうじゃが蠢いているのだ!
はっきり言って,ネットも携帯も,老人から子供まで使える家電製品の世界とは,まだまだかけ離れている.
どれだけ素晴らしい製品が開発されようが,そのモノを使う基盤が,専門的な知識のない多くの人を排除するようなものだと,何の役にも立たないじゃん.
例えば,LithuaniaだかEstoniaだか,バルト三国のどれかの国では,誰でもネットに繋げる電話番号が国から提供されていた.
とにかくコンピューターがあってそこに電話すれば,誰でもネットに入れる.IDもパスワードも要らない.回線のスピードはそんなに速くなかったけれど,情報にはアクセスできる.そこからもっと早い回線のプロバイダーなり,他のサービスなりに繋がっていけるわけだ.もちろんそれは,言葉は古くなったがIT化された世界に対応していくための国家戦略な訳だ.
これからの戦力になる若者への投資だが,それは同時に高齢者へのケアーも兼ねている.ちなみに,僕のような旅行者にとっても,とてもありがたいサービスだった.日本も,莫大な予算使って何とか記念館を建てるよりも,そういう基本整備を何とか出来ないかなぁ.どうも,金持ちの国ほどそういう所にお金がかかる.ケチ臭いったらありゃしない.
とにかく,ネットに関する情報は,ネットの中に一番溢れている.例えば,日本の老人がインターネットを始めたいと思ったら,今の環境でいったい何処から手を付けたらいい?家電屋に行って大枚はたいて機械を買って,店の言うままに契約して...おまけにガスや電気などのライフラインに加えて,月々の支払いも増える.そんなものにあえて手を出そうという魅力を,ネットにアクセスしていない老人に提供できているのだろうか?
入ってしまえば,いろいろ良いものもある.キーボードとマウスによる入力はハードルではあるが,70歳過ぎの母親だって,携帯のくそややこしい番号キーで,楽しそうにメールを打っているのだ.何とかなる.そう,問題は繋がるまでなのだ.
とりあえず携帯は,今日のうちに母親のものをsoftbankに乗り換えた.何だかワケノワカラナイ制約&サービスが付いて,電話本体もタダみたいな値段で手に入る.国内通話なら,softbank同士はほとんどお金もかからない.といっても基本料金は3000円近く要るわけで,それだけ払えば後はもういいよという感じ.まあ,考え方がネットと同じ.欲望の入り口を作っておいて,あとの儲けはその中でいろいろ仕掛けていこうという事でしょう.これで,ほぼ1日を費やした.時間のあるお正月だからこそ出来る事だと,自分に納得させておこう.
何だかんだいっても,僕的には年々目に見えるように便利になっていっている世界ではある.
今年もよろしくお願いします.
2007
今年になってから,今年の予定が決まってきている.
遅すぎるだろ,いくら何でも...と焦ってはいるが,嬉しさもある.実は,新作を作る話しが進行中.それがようやく,現実的に形になりつつある.
他に,Singaporeのアーティストとのコラボレーションや,ダムのパフォーマー・ソロ公演での照明のお手伝い,RCの東京公演の可能性など,ほぼ決まったものから3月頃の助成金の結果次第のものまで様々だが,いずれも進行中・調整中.僕が,パチンコや宝くじも含めて賭け事全般に興味ないのは,人生が博打みたいなものだからか...
娘と妻と,金魚を買いに行った.なくなった実家から古風な水槽をサルベージしてきていて,そこで飼おうと思って.
僕の思惑としては,闘魚(ペタ)なら長生きしそうだし,派手で良いかと思って熱帯魚屋さんに行ったんだけど,そこで娘が選んだのが,なんとも金魚らしい金魚.闘魚を飼うなら水槽に蓋が要る(飛び出してしまうらしい),との熱帯魚屋さんの兄ちゃんのアドバイスもあり,ペタはあきらめてその真っ赤な金魚に決定.娘が素早く,「ぐるぐる」と命名.小さな生き物が身近にいるのは,なかなかよろしい.
DANCE X MUSIC!
少し前になるが,1月24日に京都芸術センターでDANCE X MUSIC!を観た.
JCDN主催で,「振付家と音楽家の新たな試み」と副題のついたこのシリーズは,今回2回目とのこと.コンテンポラリーの振付家と音楽家を引き合わせて,滞在制作の場まで含めたプロダクションを立ち上げるというのは,日本の現状を見ると素晴らしいことだと思う.
もともと舞台作品は,ムーヴメントと音,装置と照明などの要素の相互作用で成り立つものだが,特にダンス作品の音と動きは,たいてい緊密な関係にある.なのに,自分の好きな曲だからとか,強いインスパイヤを受けたからといって,市販されているCDの曲を使って作品を立ち上げるというのが,あまりにも安直に行われている気がする.
もちろん,ある時代の気分や特定の世代の感情と強く結びついている曲というのがあって,作品の内容によってそういう曲の使用が不可欠,ということがあるのもわかる.でも,でも,それにしても,仮に必死で山のような曲の中から,自分たちのイメージにあうものを探し出したとしても,それはどうなんだろうと思ってしまう.
ちょっと違うかもしれないが,以前,J.P.ゴルチェのショップで買ってきた服を着て踊ったダンサーが,フライヤーに「衣装:J.P.ゴルチェ」と書いていたというのを聞いたことがある.これは,たぶん誰が考えたっておかしいと思うだろうけれど,アリモノの曲を使うというのも,僕は同じような印象を受ける.
だってそこには,音楽家もしくは音響制作者と振付家/舞台制作者との,創作のやりとりが抜け落ちている.
しかも,デジタル機器の普及もあって,誰でも簡単に音作りに取り組める現状である.(今回の作品では,デジタルな音は使われていなかったけれど...)
それに,調べたわけではないけれど,舞台作品の振り付けなどに関わる人よりも,音作りに関わっている人の方が,数は多いのではないだろうか.振付家はCDの山を発掘するより,音楽家との出会いを求めた方がよほど有効で,しかもそれほど難しくないんじゃないだろうか?音楽家は,振付家がいなくても,容易に作品が作れる.でも,振付家が,音楽抜きで作品を作るのは難しい.(不可能ではないけれど.)だからたぶん,振付家側からのアプローチが必要なのだ.
なのに,いまだに音源はCDから借りてきました,という作品が散見されるのは,どうも残念なことだ.それには,予算的なことまで含めて,いろいろな日本的理由があるんだろうけれど,作品を作る側の気持ちというか意識が,いちばん大きく関わっているんじゃないか?
確かに時間もお金もかかるし,難しいことは一杯ある.でもね,バレエの古典作品だって,最初は振付家と作曲家のコラボレーションから生まれたものだ.
そういう状況に,制作サイドであるJCDNが関わって,こういう舞台を用意するというのは,至極まっとうで説得力がある.
とまあ,長い前置きだったけれど,かなり面白い舞台でした.
最初の,森下真樹さんとTHIS=MISA x SAKOUのコラボレーションは,その力技に圧倒される.シリアスなダンスダンスしたパートから,ずいぶんコミカルなパートまであって,最初僕は「面白けれど,何となく今の気分じゃのらないなぁ」などと勝手な思いで観ていたのだが,首根っこ捕まれて引きずりあげられるような感じで,終いにはずいぶんと笑ったし楽しんでいた.
THIS=MISA x SAKOUの音楽の力をかなり強く感じたけれど,森下さんの動きも負けていなかったし,何より参加者3人全員の相乗作用でこの作品を作り上げたというのがよくわかった,良いものでした.
つづく,「ほうほう堂」と「にかスープ&さやソース」の作品は,かなり残念な感じ.僕の好みの問題だが,ほうほう堂の動きが,どう楽しめばいいのかわからなかった.「日々出会う衝動や微細な感覚に焦点をあてた独自のダンス」らしいが,独自というより幼児的,それに動きの形は独自のものかもしれないけれど,振りの構造というか作り方みたいな所は,極めてオーソドックスなものに感じられた.
音とのコラボレーションというのも,組んず解れつ音楽と格闘したというよりも,あらかじめ想定した行程を何とかやったというような感じ.(あくまでも僕の感想です.)
「にかスープ&さやソース」の音楽+パフォーマンスがとても面白かっただけに,残念でした.でも,こういう試みは重要だし,アーティストも,やり続けることでしか自分たちの方法は見つけられない.
次が楽しみな企画でした.