ダムの公演で,南米Colombiaの首都Bogotaヘ行ってきた.
そう,過去形なのはもう実は帰ってきているところなので...Bogotaでブログの更新をしたかったのだけれど,忙しくてなかなかできず,やろうとした時にはNiftyがメンテ中.何だかね,間が悪い.
一時期は,バックパッカーの間でも治安が悪いと評判で,あまり進んで遊びに行く人も少なかったBogotaだけど,いまはそれほどでもなく全然身の危険は感じなかった.もっとも,大きなフェスティバルヘの参加で,通訳件ガイドさんがダム専属で2名も付いてくれるような,至れり尽くせりの状態だったので,ふらふらと一人で遊びにいくのとは,かなり違った状況だったけれど.
そのBogota festivalは隔年開催ではや11回目,つまり22年も続いているそうで,規模もかなり大きくて成熟したフェスティバル.いっちゃあ何だが,僕が身の危険を感じなかったといっても,街が荒れていたのは事実で,いまもそこここに銃を構えた兵士が,これでもかというくらい警備に立っている.そんな状況下にたくさんのアーティストを喚んで,ちゃんと公演をオーガナイズして無事に帰すのは,さぞかし大変だろう.それを22年も続けるなんて,本当に大したもの.
もっとも,何年か前には,どこぞのアーティストが,「行ってはいけない所」に迷い込んで殺されたとか...それでも続いているんだから,やっぱり大したものか.
ところで,僕たちの公演した劇場だけど,大学内の劇場で客席数は1000名以上,それにしては舞台の面積だけはある程度あるのに,バトンがほとんどない!しかも,舞台天井部にはスノコがなくて,ビルの構造鉄骨にモーター・ホイスト直付け.電源は,電源車手配でまかなって,照明ディマーも持ち込みと,要は空っぽの箱だけあって後は仮設.
僕は過去にメキシコとブラジルでの公演を経験した事があるので,ある程度設備が整っていても設営には時間がかかると踏んでいたのだけれど,それに輪をかけた悪条件.案の定,設営に要した時間は通常の2倍程度,でも仕込みはいつもと同じ2日間.もともと3日以上欲しいとリクエストしていたんだけれど,会場のスケジュールが詰まっていて無理でした.
という事で,つまりは初日仕込みが朝から夜中過ぎまでで,2日目に至っては朝5時まで仕込んで3時間ほど寝て,それからまた仕込んでリハをして,夜8時の公演開始までプログラムの修正.
いやはや,覚悟はしていたけれど,よく間に合ったもんです.
現地照明スタッフは,2日間劇場に泊まり込み.機材の間で,寝袋にくるまって寝てました.通訳さんも,僕等が帰るまではフル稼働.
ゴクロウサマでした.
つづく...
写真は,劇場の外と内.
Bogota festival
さて,Bogota festival.国の状況はというと,お世辞にも安全といえない中で,前に書いたようにもう22年もがんばっている.絶対安全,お金持ちの日本国で,毎年開催と謳ってはそうそうに隔年開催になり,数年で跡形もなく消えて行く,有象無象のあまたのフェスティバルとは大違いだ.(国とかの公的予算が付いた,首都の名前や「国際」と名が付いたフェスでも,アーティストやプログラム・ディレクターの思うように任せられないこの日本は,ホントどうかと思う...)
公演初日までは,人生で一番といっていいほど切羽詰まったBogota公演だったが,全部で5回の公演があったので,初日が終わると後は楽ちんだったかというとそうでもない.初日・2日目と夜8時からの公演だったけれど,3日目は昼・夜の2公演,最終日は昼公演と,なかなかのんびりできないし,他の公演を観る時間もない.
そうこうするうちに,はや最終日を迎えたのだけれど,Bogota fesなかなか大盤振る舞いです.実はすっかり公演が終わった翌日,1日Colombiaでのオフをくれました.なので,公演終了の翌日は名所旧跡廻りと,フェス参加作品の観賞.うまくタイミングが合って観れたのは,Akrama Khan Dance Companyの「bahok」と,チリのカンパニー(なのかプロジェクトなのか...)Teatro Cinemaの「Sin sangre」.
Akrama Khanは,去年埼玉でのAkram Khan + Sidi Larbi Cherkaouiの「zero degrees」(残念ながら未見)というデュオが多いに話題になったけれど,「bahok」という作品は,中国・韓国・中近東(国名までは分からず)・あとはたぶんBelgiumのダンサー達が,London空港のようなシチュエーションから端を発して踊りまくるというような内容.
いやもう踊る踊る,僕は自分が踊る人じゃないので,ただただ感嘆して観てました.あんなに踊れたらいいだろうなぁ,自分の作品で使いたいかどうかは別だけど,単純にすごく踊れるというのはカッコいいなぁ.
そしてチリのTeatro Cinema.読んで字のごとく,映画と演劇の合体.フロント・プロジェクション用のスクリーンとリア・プロ用スクリーンの間で役者が芝居をする.特筆すべきはフロントスクリーンで,その後ろの役者のアクティングエリアとの間に遮光用のパネルが動いてる事は分かるんだけど,それが全面をカバーするわけではないのに,フロントの映像が入るとその後ろにいた役者はかき消えるように見えなくなる.まるで魔法のよう.
フロント映像と,うまく照明の当たった役者の実像と,リアプロの映像(これは当然ながら役者の背景に見えている)があいまって,書き割りみたいだけれど動きのある舞台が実現する.
残念ながらバリバリのお芝居で,英語字幕さえないスペイン語オンリーの舞台だったので,芝居の内容はまったくもって判らなかったけれど,舞台を観ているだけで最後まで楽しめました.どうやら,来年09年には,字幕の準備もして東京公演に来日するとか.チリ,侮りが足しです.
いくつもあるプログラムの中の2つだけを観ても,とても面白かった.
どれだけのカンパニーが来ているのかきちんと把握していないけれど,たぶんこのフェスは地元主導でちゃんと情熱があって続いているものなのだ.Colombiaでできて日本でできないのは,何の差なんだろう?日本でも,私財や時間を投げ打ってまで,きちんとしたフェスを継続しようとがんばっている人達はいる.なのに,その熱情がなかなか報われないのは,結局文化をきちんと自国の力にする事のできない(どうしていいか分からない),行政の責任じゃないだろうか.きちんと継続する,気長に育てる,というのは,コロンビア人より日本人の方が得意そうな気がするのに,どうもちがうんだなぁ.
写真はまず,闇雲なColombia人のマッチョな姿.
この写真で彼らが担ぎ上げている箱(22番)は,重さが500キロ弱ある.かなり扱いが面倒で,パワーゲート付きトラックが絶対いるとか,それが無理ならフォークリフトを用意しろとか,貨物輸送のネックになっていたものなのだけれど,今回初めてフォークリフトが来るのを待ちきれないコロンビア野郎約10名によって,人力で持ち上げられて積み込まれました.いやもう,勢いに任せた熱情.たぶん誰かが手を滑らせたり躓いたりしていたら大惨事...積み込んだ後は,そんな杞憂を吹き飛ばすような笑顔.
あとは,名前は忘れちゃったけれど,コロンビアらしい果物.皮を割るとネトネトの種だらけの果肉.種ごとズルズル食します.食べ過ぎるとてきめん下痢するとか.
坂のある通り.
トラスまでバラシ終わった,ダム公演会場.
Catedral de Sal Zipaquira
コロンビア滞在最終日に行った名所旧跡「Catedral de Sal Zipaquira」.古くからの岩塩採掘場跡を,教会にしたもの.
Bogotaからバスで1時間程度.折しもイースターも終わりの頃とあって,昼にはミサがあってとんでもない人出になるというので,朝早くに行く事に.でも...チャーターバスは,約束より1時間以上遅れてホテルに来る始末.まことにコロンビア時間.(通訳さんに聞いた話だと,コロンビア女子とのデートでは,2時間は遅れてくるのが当たり前だとか)
しかしまあ,道が空いていた事もあって,入り口の開く9時を少しまわった頃に無事到着.
ヘルメットにライトの付いた英語を話すガイドさんが,案内してくれる.入場料は一人1万2千ペセタ,日本円で600円くらい.ちなみに,バス(というかミニバンだけど)は,6時間貸し切り運転手付きで8500円くらい.
最初はインディオが平掘りで塩を取っていた山に,そのうちスペイン人が入って坑道を掘り,機械掘りになってやがてはダイナマイトでどっかんどっかん掘り進んだという穴は,奥へ行くほど広大な空間になっていて,とにかくすべて人工の空間かと思うとそれなりに凄い迫力.鍾乳洞の神秘とは違うけれど,初めてイタリアで教会を見た時の威圧感というか,これ建てるのに何世代が関わって何人くらい死んだんだろう...という宗教の魔力のようなものを感じる...
でもよく考えてみれば,教会になったのは岩塩採掘の終わった後で,この穴が掘られたのは宗教じゃなくて経済がエンジンなのでした.(だけど,跡地を教会にしようと思い立った背景には,上述の空間の力の類似みたいなものが,確かに関係していると思う)
とにかく,自分が立っている場所から遥か高みにある天井部にも,よく見ると手彫りの鐫の痕みたいなものが見受けられる.最初はみっちり詰まっていた岩の中に手を入れて,最後にはこんなに茫漠とした空間を,人が地下に出現させたのかと思うと,改めてそのエネルギーに圧倒される.その上辺を飾るのが宗教だというのも,何だか納得.
写真は,坑道への入り口・いくつもあるステーション(坑道が少し広がった所で,今は各ステーションに十字架が彫られてライトアップされている)・一番大きな聖堂を遠方から望む(この,目に入る空間すべてがヒトの手による)・塩の壁・大聖堂の十字架(照明はネオン管,青色LEDとかが使われている場所もあって,照明デザイナーそれなりにがんばってました)
さいごは,フリーマーケットの会場で見かけた,焼き肉風景.コロンビア人,主食は肉です.キリスト教ってその辺り(生き物の殺生とか),全然関係ないのね.砂漠の宗教って,サバイバル.
Exile or abandonment
今年初めのEaさんのツアーから帰って以来,ずっと気になっている事がある.気にしても仕方のない事だし,どうなるモノでもないのだろうが,整理のために少し書いてみよう.
Eaさんのアメリカツアーは,最初の公演地だけ東海岸で,あとはずっと西海岸での公演だった.いろいろと段取りの悪い事などあったが,まあ諸条件から考えると何とかなった方だと思う.
ただ,もっともピンチだと感じたのは,実は当時のブログには書いていない,最初の劇場での公演が終わった翌日の出来事だった.
公演が終わった翌朝,一人のダンサーがいなくなった.
前に書いているように,場所はBostonから車で3時間ほど離れた大学町で,その朝そのダンサーは,鞄に自身の荷物を詰めて,バスに乗ってどこかに行ってしまった.
そしてそのまま,遂に帰ってこなかった.
ツアーは,その人をアメリカに残したまま,約一月後に終了し,僕たちは日本に,ダンサー達はベトナムに帰国した.
もともとダンサー達はあまり英語が話せず,僕はベトナム語もフランス語も話せないので,それほど会話はなかった.でも,もう足掛け3年目の付き合いだから,その人の事も少しは知っている.
僕にとっては,ダンサー達の年齢は本当に分かりにくくて,それはもう外国人が日本人の歳をずいぶん若く見てしまうのと同じようなもので,みんな年齢不詳なのだけれど,その中では若干年上だったのだと思う.ハノイバレエからキエフに留学していた事もあるそうなので,ベトナム・クラッシックバレエ界ではエリートだったんだろう.結婚していた事もあるはずで,子供もいたと思う.
聞いた話では,ツアーにでる前に,新しく赴任したハノイバレエの芸術監督に,戦力外だと言い渡されたらしい.それが,レパートリーの中の何かの作品に対する決定なのか,それとももうベトナム国内ではどこでも踊らせないという事なのか,そもそも僕にはベトナムバレエ界のシステムが判っていないので,どれほどの決定なのかイマイチよく分からない.
社会主義の国だし,何度か滞在した経験から,プライベートのダンスカンパニーはおそらく作る事もできないだろうという事は想像つく.でも,そのディレクターが言い渡した言葉が,そのダンサーの人生にどれほどの衝撃を与えたのかまでは,僕には想像できない.
そして,このツアーは,おそらくベトナム国外に出れる,最後のチャンスだった.Eaさんのこの作品の公演には,先のスケジュールは入っていない.新作を作る予定はあるんだけれど,この作品を続けるかどうかは,未定なのだ.
それで,消えてしまった...
最初の公演が終わっても,その時点ではあと一月弱のヴィザが残っていた.おそらく,東海岸の方が,伝手のあるベトナム人が,多く住んでいたのかもしれない.(アメリカには,当時「南」から移住してきたベトナム人コミュニティーが,結構あるみたい)
でも,でも,だ...
たぶん,もう踊れないじゃないか.もし,お金なり何なりの工面が付いて,新しい名前と身分を手に入れたとしても,アメリカで自分が踊れるポジションにたどり着くのは,おそらく不可能に近い事くらい,分かっていたと思う.
もう,戻れないんじゃないのか,とも思う.子供だっていたし,親だって,友人だっていただろう.別に,国家に命を狙われるような事態じゃなかったとも思う.でも,もう簡単にはベトナムに戻れないだろう.
何がそんな気持ちを駆り立てたんだろう?
そんなに,「国」という存在に重きを置かないような,考え方や文化が根付いているんだろうか?
僕はあれから,時々自分の中に「亡命」や「棄国」という言葉を探してみるけれど,まったくもって見つける事ができない.それほどまでに,失踪したダンサーと僕の間には,理解を超えた差があったのに,まったく解らなかった.ハノイに滞在していた時だって,そんなプレッシャーというか,国を捨てなきゃいけないような雰囲気は,感じなかった.
失踪は,極度に個人的な事情によるものだったかもしれない.でも僕は,その前日に「ひさしぶりー」とか言って挨拶していたのだ.
何が,そういう決断に,導いたんだろう?
それが別に,何か悪い事だと思ってるわけではないんです.ただ,結構いろいろな国に行って,様々なモノをずいぶん見たし経験もしてきたのに,知らない事感じていない事はまだまだあるし,しかも自分は,そういうモノ/コトを考えるのが仕事じゃないかと,強く考えているわけです.
true_YouTube
去年創った「true」の、すごく短い紹介映像が、YouTubeにあがっている。
5月にベルリンでワークショップがあるんだけど、その講師紹介みたいな形でアップされたものです。
近々trueのサイトも本格的に更新して、10分程度の映像も上げようと思っているので、その前振りのようなものです。「true」「LED」「Fujimoto」とかで、検索してみて下さい。
ところで、1月のアメリカツアーの頃から様子のおかしかったMacBook Proのファンが、一昨日また本格的におかしくなった。何だか、マイミクさんの一人も同じような状況に見舞われているとブログにあったが、とにかくパワーの要る作業にかかると、爆音でファンが唸りだして、なかなか止まらなくなる。あきらかに軸がずれているようで、モニターしてみると片ファンが止まっていることもあったりして、本体の熱はかなりのもの。
一昨日は、夜中に30分弱の映像をレンダリングしているときに鳴り出して、往生した。キャンセルすると、またいちから書き出さなくてはいけないし、かといって熱暴走して止まるのも嫌だし…
それで、腹をくくって、翌日心斎橋アップルストアのGENIUS BARに持って行った。大阪まで行くのは手間ではあるけれど、ネットで予約すれば待ち時間もなく、ファンの在庫を速攻で調べてくれて、できるだけ短期間のお預かりということに。で、早速今日の夕方、修理完了の電話が来た。クイックガレージが京都にあるので、どっちが早いかと迷ったんだけど、たぶんアップルストアーのほうが部品の在庫はあるだろうし、それに久々に大阪に行ってみたかったこともあって、心斎橋を選んだ。まあ結果として、約48時間以内で修理ということで、良しとしましょう。
ということで、今はLiddell用のWin機でネットにアクセスして、メールチェックやこれを書いたりしています。本来なら、照明機材としてのPCなので、下手にネットなどに繋がない方がいいのですが、さすがに丸1日メールチェック等をしないと、どうも不安になります。
しかし、Win機のフォントって、何でこんなに粗雑な感じがするんでしょう?ただ単に、このPCが古いせいかな?
HDD replacement
MacBook Proのファンを修理した勢いで,ハードディスクドライブ(HDD)も入れ替えることにした.
僕がまだ現役のメインマシンとして使っているのは,MacBook Pro初期の1.83GHzだが,このマシンのHDDは80Gしかない.基本的には,VectorWorks, Acrobat professional, Mail, Safariと後はillustratorとPhotoshopあたりが動けばいいので,使い出した初めの頃は問題なかったのだが,いろいろ作ったらデータも溜まるし,簡単な動画まで編集し出したら,さすがに80Gでは慢性的に容量が足りなくなってきた.
購入した時に,前のG4でも同じ容量のHDDで,もう少しあった方がいいかなと,換装の可能性を探ったんだけど,その時はまだSATA(シリアルATA接続)の9.5mm厚のHDDはあまり出ていなかった.確か2年前だが,その時すでに15mm厚のSATAHDDは結構あったのだけど,9.5mmはまだ出始めという感じ.
それをうろ覚えで,何となく僕のマシンはハードディスクが特殊に小さくて,なかなか安く普及するようにはなっていない,と覚えていて,ずいぶん他人にも言ってたりして(恥)本気で換装を考えなかったんだけど,これを機に探してみると...さすがに日本のコンピューター市場(たぶん世界で一番安くて充実している),SATA9.5mmの7200回転容量200Gで1万5千円を切っている.
その気になって検索すれば,換装手順もご親切に写真付きでアップしてあるし,ハードディスクの回転数が上がった時の体感速度の向上はG4時代に体感済みなので,速攻で7200bpm200Gを発注.ついでに見つけた秋葉館のこれも購入.
http://www.akibakan.com/100001akibakan/shop/product/detail.do?shopId=100001&pfid=BCAK0012280&sku=BCAK0012280A&pdListCf01=sub_menu.html&pdListCf02=&pdListCf03=&pdListCf04=&pdListCf05=header_tab_mac.html&pdListCf06=&pdListCf07=&pdListCf08=&pdListCf09=&pdListCf10=
これで,移行の準備も整ったと,期待満々で土曜の朝を迎える.前述のFireWire Toasterは,まだ届いてはいないものの,宅急便のサイトで,午前中にはウチに届くことを確認済み.
さて,土曜の朝,とにかくまずHDDを入れ替えちゃえと,マシンを裏向けてひたすらネジを回し,裏面からアクセスできる長いの〜とか,側面のネジは全部短い,とか確認しながらそれぞれを小皿にわけて外していくと,いきなり問題が.トルクスネジの大きさが,G4に使われていたものより小さい.
確かに,ネット上の説明とかでは,T6のトルクス(星形の)ドライバーを用意,とか書いてあるんだけれど,T6がどのくらいの大きさかは分かんないじゃん.何でAppleは,わざわざ前のマシンより,ネジを小さくするかなぁ...と,文句を言っても始まらないので,ドライバーを買いに行こうと思うが,取り出したHDDのデータを移すために必要な,外付け用クレドールの宅配がまだ届かない.
何度か宅急便の営業所とやりとりして,「すぐに配達は無理だけど,1時間後に伺います」という確約を得て,必死で電気屋街まで自転車で走って数軒廻ってT6トルクスドライバーを購入,息切れしながら何とか1時間以内でウチに戻ったら,不在票発見.買い物に出た10分後くらいに,配達に来てた...
なんやねん,佐川急便.
まあ次の時間区分には配達されるように電話で設定して,ようやく本題のHDD換装の続き.今度はめでたく全てのネジを外し,本体を表返してパームレストとキーボードが一体化した表面を持ち上げようとするが,さすがにそんな,ネットの解説に書かれているようにはうまくいかない.隙間にマイナスドライバーをねじ込んだり,パネルが歪むほど曲げつつ持ち上げたりしながら,ようやく内部にアクセスできるようになり,HDD上面に関係しているケーブルプラグを外したりしながら,ようやくHDD入れ替え成功.
続きは,明日.
Catch a cold
手ひどい風邪をひいてしまいまして,家族と接する以外は世間様と隔絶したような1週間を送っておりました.
熱は出ないものの,始めは咽がひりひり痛く,やがて鼻にきて,少々遅めの花粉症のように洟ズルズル.2日で,ティシュ1箱使い切りです.
どれくらいぶりでしょう,こういう風邪をひくなんて.このところ,あまり風邪などひかなかったのに...
おまけに,今朝知らせがあって,大学の時によくしてもらった先生が亡くなったとのこと.まだ60歳前だったのに.
楽しそうに生きてる感じのヒトでした.
リュウマチが原因で,との事ですが,そんな死に至る病だとは,知りませんでした.
幸い今日は,天気が良かったのが救い.
Carbon Copy Cloner
さて,風邪は治んないし,ヒトは死ぬし,桜は散るし,何か散々であります.
時間はあるので,いろいろ溜まっていた仕事をこなしたり,密かに山積みになっている本/資料を読まねばと思うのだけれど,洟は垂れるし,眠いし...でも,まあ,ぽつぽつと作業を進めて,ようやく,去年茅野市民館でやった「lost」公演の映像を編集しました.YouTubeで,ショートバージョンを観れます,「lost Fujimoto」などと入れて,検索かけてみて下さい.lostだけだと,あのアメリカドラマの,無人島に飛行機が落っこちたヤツの関連が多くて見つかりません.(その点では,trueもいっしょ.)
ちなみに,僕と同姓同名同漢字の声優さんがいらっしゃるようで,Googleで検索するとその方が引っ掛かるんですが,YouTube内で僕のフルネームでサーチすると,これまでの僕がLED照明を使った作品だけが出てきます.
それで,HDD換装から結構日にちも経ち,もう続きを書く気も失せたのですが,とにかく無事に動いております.
入れ替えたHDDに,まずOS(tiger)をインストールして,移行アシスタントで旧HDDからデータを移そうと試みたのだけれど,何かが引っ掛かって途中でアウト...
で,仕方なしにというか,これまでバックアップ用に重宝していたC.C.C. (Carbon Copy Cloner)で,旧から新HDDにデータをバックアップして,それをメインシステム(起動ディスク)として使っているのだけれど,アプリの再インストールの必要もなく,問題なく無事に動いておりまする.C.C.C.は,英語環境でしか正しく動作しないので,起動する前に,システム環境設定の言語環境を英語(米語)に変えて再起動しないといけないけれど,それさえすれば,僕が使っている程度の環境なら,簡単にコピーできて起動ディスクとして使えるようです.
それで,とりあえず7200回転の200GBを組み込むことが出来たわけで,しばらくはこの環境であまり不自由を感じなくてすみそうです.