2ヶ所目のSeattle/Meany Hallでの3回公演を終えて,今日の朝,San Diegoに飛行機で南下.Mandeville Auditoriumという場所で明日から2日間仕込みの1日本番でバラシ.そのままLAに車で移動して,翌日1日仕込みでそれから2日間2回公演.このツアー最初のヤマ場である.
Seattleの会場は,Washington大学キャンパス内で,周りには学生や先生たちがたむろするカフェやレストランも多くて,いまだにちょっと60年代の香りがするような所でした.
でも,劇場は設備もよく若いスタッフも隅々まで行き届いた働きぶりで,非常に気持ち良く進みました.特に照明関係は,去年ディマー等の設備を,全部最新のETCのシステムに入れ替えたとかで,小さな有線のステーションを,各照明バトンなどの電源部につなぐ事で,ディマーナンバーをDMXアドレスみたいにパッチできる.そうしてそれを,メインのコンピューターが管理している.こう聞くと2度手間のような仕組みに聞こえるけれど,僕みたいに外から機材を持ち込んで,劇場のディーマー共々持ち込みの卓で動かそうとした時など,すごく便利.
公演は,あまり学生の姿は見かけず,年配の人々中心だったけれど,毎回客席の7〜8割は埋まり,寂しい思いはせずに済みました.
そして,San Diego.
Seattleから約3時間.それなりに季節は冬だけれど,ずいぶんと暖かい.海の傍のホテルに落ち着いて,少し外を歩いたら,満月で花なんかも咲いていて,昨日までとは別世界.
写真は,少し前だけれど,HannoverからBostonに移動した際の凍りついたバスと,Seattleの劇場.
SanDiego/Mandeville Auditorium
アメリカ3ヶ所目.
ホテルは海の近くですこぶる気持ちいいのだけれど,朝から晩まで劇場で仕事.まあそれは仕方がないが,劇場がまたもう,68年に建ったとかで,その当時はモダンな建物だったのだろうが,客席の傾斜はないは,バトンは一切降りないし,しかも例に漏れず大学内劇場で,今回初めてのほぼ全員学生ボランティアスタッフ.前のツアーでもひどい目に遭って,オーガナイザーに,スタッフは必ずプロを雇うようにと念を押しておいたにもかかわらず,打ち合わせをしていた雇われテクニカルの兄ちゃん以外は,初めて劇場に足を踏み入れたような大学生ばかり.まったくもう,えらいこった.
それでも,日本から一緒に来ているスタッフの頑張りで,照明のフォーカスも無事終了.何とか無事本番を迎えられそう.
これから,夜に1回公演したら,バラシてそのまま車でLAに移動.ここから2時間半ほどの距離とか.それで,明日1日仕込みで明後日から2日間2回公演.
ロスの劇場はしっかりしているという話だけれど,どうかなぁ.
写真は,公演前にようやく見つけた散歩の時間.それと劇場.
Los Angeles UCLA/Live Royce Hall
ツアー4ヶ所目,
ここは美しい劇場で,建物自体は古いのに(1928年建築とかいう話),中は趣味よく改修も重ねられ,機材もなかなか充実していて,手入れもされている.舞台の奥行きや,客席の形状など,残念な所もあるけれど,それはもう全面建て替えしか更新のしようもないようなもので,この劇場はそんな道は選ばずに,ぜひこのままの方針であと何百年も存在していて欲しい.
テクニカルも,チーフ格はおじいさんやおばあさんが多いが,今の技術にもきちっと対応していて仕事も的確で,手伝いに入っているいい加減な若者とは大違い.
いちおう今は無事仕込みも済んで,リハとその後続く本番を控えて,ダンサーのウォームアップを横目で見つつこれを書いているのだけれど,ここにたどり着くまでは,なかなかハードな日程でした.
まず,San Diegoでの1回限りの公演が終わってバラシ,その後1時間ほど劇場でLAに向かう車が来るのを待つ.今回のツアーはほぼ大学内の劇場を回っていて,その会場のほとんどが広大なキャンパスの中にある.なので,車でのピックアップを頼んだ場合,十中八九ドライバーは迷う.
特に今回は,ロスのシャトルカンパニーに,僕たちの輸送がオーダーされていたので,San Diegoに慣れていないドライバーはかなり迷ったらしい.でもまあ12時の予定が12時半には車が来て,一路ロスへ.しかし,おそらく理由はあるのだろうが,UCLA公演の宿泊先のホテルは,ロス市内ではなくてなぜだかCulver Cityという所にとられていて,ドライバーも何となくしかホテルの場所が分からない.
この移動が200キロ程度なので,例えれば京都で公演が終わったその夜中に名古屋まで車で移動,2時半頃に名古屋近郊の街についてホテルを探してひとしきりウロウロしたあと一眠り,翌朝8時過ぎにこれまた車に乗り込み,30分ほど走って劇場入りという感じ.
何だろね,こういうハードなスケジュールの時に限って,こんな離れたホテルをとるというのは,いったいいかなる配慮なのか?(きっとオーガナイザーは,僕等のスケジュール的な事は何も考えてない.)このUCLAは,仕込みが1日しかない.まあ,日本では普通だけど,このツアーは基本2日仕込みで考えているので,がんばって夜23時まで作業.その後これまたタクシーが迎えに来るのを30分ほど待って,30分走ってホテルに帰り,翌朝,また車で劇場へ.
しかし,アメリカの大学というのは大きいね.しかも,西に来てから学生の中でアジア系の占める割合が,圧倒的に増えた.そのせいか,San Diegoにはタイフードの学食があったし,ここには日本食と中華のフードコートがある.(地下にゲーセンもあったのには驚いた.大学構内に...)そんなSUSHI&SOBAレストランに座って周りを写真に撮っても,きっと誰もUCLA校内だとは信じてくれないだろう.周り中,ほぼアジア系.僕はアメリカの大学事情には全然詳しくないんだけど,みんな何を学んでいるんだろう?
写真は,劇場客席を舞台から.ホワイエ.そしてこれは初めて見た,前室ならぬ前廊下.劇場への入り口には,普通は遮光のために小さな部屋があるかカーテンで仕切られていたりするんだけど,ここはそれが廊下になっている.ちょっと感動したお洒落な造り.この写真の右側がホワイエ,左の扉が客席に開いている.
UC Santa Barbara/Campbell Hall
27日にLAから Santa Barbaraに移動.UC Santa Barbaraは確かに大学なんだろうが,劇場の周りは研究施設が建ち並んでいるような印象.あまりのどかなキャンパスという感じがしない.公演会場のCampbell Hallは今回最大の難所.タッパが低くて,でもバトンは一切降りず,舞台奥行きも通常この作品を公演している半分くらいしかない.でも,間口は広くて客席は傾斜があまりなくて800席と,要するに講演会場.もしくはリサイタル・ホール.(実際,アコースティクな音環境は,すごくいいみたい.)
しかも,しかも毎日朝から午後2時までは大学の授業で使われていて,仕込みもリハも本番日も会場入りは午後2時から.
最初に図面を見た段階で,オーガナイザーに「無理」と伝えたんだけど, 何だか絶対やらないといけないみたいで...Eaさんも,ダンス的な部分はカスタマイズできるというし...
で,2日間仕込みでやってみたら,何とかできました.はい.
結局は劇場は「人」というか,無理な事をやらなきゃいけないと一番認識しているのが現地スタッフで,とにかく一生懸命対応してくれる.少しでもよくなるように協力してくれるという体制で,なんとかなりました.(でも,基本的には,そんな無理して見せるんじゃなくて,普通にがんばって100%に近いものを,お客さんには観てもらいたいですが.)
そんなこんなで,毎日朝から昼過ぎまでは時間があったんだけれど,ほぼホテルから外に出ず.というか,車がないと何もで出来ない.Santa Barbaraの街は映画「ゾロ」の設営ロケ地だとかで,スペイン風の低層住宅が建ち並ぶ瀟洒な町らしいのだが,ホテルが郊外にあるのか街が何処にあるのか全然分からない.聞く所によると,住民の80%くらいは,金持ちのリタイア老人らしい.物価も,他に比べてバカッ高.僕の見聞きしたほんのわずかな事柄からの印象としては,この地域全体が高級老人ホームと研究施設の集合体.こんな所にゃ,住みたくない.
そして,またまた1回公演の本番が終わって,バラシてその夜にRiversideに移動.車で2時間半くらいだったかな.今度は,UC RiversideのUniversity Theaterで公演.1日仕込みで翌1日1回公演.ベルトコンベアーに乗ってるみたいですな.
夜中2時過ぎに宿泊先に着くが,今回は学生寮というか,大学の宿泊施設で,普通のホテルじゃない.到着が遅いので,チェックインのやり方をあらかじめ,メールで教えてもらっていたのだが,それによると,何時に着く事になっても玄関先のインターフォンの下の赤いemergencyボタンのようなものを人がでるまで押して,誰か答えたら「I NEED CHECK IN !!!」と叫べと書いてある...何かめちゃくちゃだなと思いはしたが,まあその通りにすると,数分後に胸に「Geek !」と書いた気の良さそうな東洋人の眼鏡君がとことこ出てきて,無事チェックイン.
はあやれやれとベットに潜り込み,翌日(もう同日朝だが)の仕込みは10時からなので少しは眠れるなぁと熟睡していたら,朝8時にこのツアーのオーガナイザーアシスタントのジャッキーから,つまらない電話がかかってきてたたき起こされる.
まだ会った事はないが,こいつ絶対バカだ.(ひとの悪口は,そのうち自分に返ってくると思うのですが...あまり溜めておくのも,精神衛生上よくないので,ちょこっと書いておこう.
写真は,Santa Barbaraのホテルの庭.カリフォルニアの青い空.Campbell Hallの外観.そして客席だけど,これは終演後ではありません,14時に授業が終わったところで,これから僕等は仕込み開始.
そして,初めて見た脚立.A ladderというのだそう.そのまんまの名前.
UC_Riverside – San Francisco
Riversideの公演も終了し,遂に最終地San Franciscoに到着.
Riversideは何というか,これまでの大学の中では一番お馬鹿な大学っぽくって,好感が持てました.
学生の幅が広いというか,ピンからキリまでいる感じ.これまでのところは,カラーが(肌の色じゃなくて)あまりにも単一で一定レベル以上で幅が無い感じだったけれど,ここはそうでもなかった.
まあ,キャンパス内をふらふらしている学生の数が,ただ単に多かっただけかもしれないけれど...でも,みんなのびのびしてる感じがしました.まあ2日間程度,しかもほとんど劇場内の滞在だったので,適当な事しかいえません.それにしても,Riversideでも学生の半分くらいはアジア系.何でしょね,アメリカの大学は,アジア系の学生を海外から受け入れる事で,大学の寿命を延命しているのか,もしくは,アメリカの人口比率でアジア系の占める割合が飛躍的に増えているのか.
とにかくまあ,Riversideも無事公演終了.
そして,かなり学習の成果が上がったのか,さしたる混乱もなく,空港のチェックインカウンターで大荷物を預ける事に成功し,LA空港を発って一路San Franciscoへ.
いやぁ都会です.ツアー2ヶ所目のSeattleの劇場は,大学キャンパス内でダウンタウンから相当離れたところだったけれど,今回はYerba Buena Centerなので,おそらくはSFのダウンタウン直下,向かいはSF MOMA.久々に行くあてもなく街に溜まっている,学生じゃない若者を見る.そう,今までの公演地では,若者といえばほぼ学生,大人はみんな先生か事務員さん,みたいな世界だったので,すっかり忘れてましたこういう空気.ここには山ほどのホームレスや鬱屈した若者や,バリバリ稼いでそうな小綺麗な人達,いろんな肌の色と言葉とファッションがごちゃごちゃになってます.
Yerba Buena Center for the Artsのテクニカルスタッフも,かなり個性的な面々.仕込み初日が済んで分かったんだけど,頼りになる人達です.
そして,ここは食べ物が美味しい(高いけど).それに,わりと適量なところが多い.
今回改めて実感したけれど,合州国内の食べ物屋で盛りつける量を,人が食べるべき適量に減らすだけで,地球温暖化も飢餓に苦しむ人々もエネルギー不足も解決できるんじゃないだろうか?それくらい,僕にとっては尋常じゃない量が一人前として出てくるし,結構みんな平気で残している.まあ,学生なんかは,ドギーバックをもらって持ち帰っていたけれど...
あと,いろいろ廻った大学の全ての学食で,使い捨ての食器とスプーンやフォークが使われていた.おそらく経済的には,食器等を洗って使い回すよりも,そのほうが安いんだろうし,食洗機なんかを使い出したら,ひょっとしたら洗う方が余計にエネルギーを使うのかもしれない.でもね,学食でベルトコンベアー式に食物を皿に盛られて,食べ終わったら食べ残しごとお皿をごみ箱にポイ,というのを毎日繰り返していたら,それは相当ダメな状況だと思うのだが,いかがなものか.
もちろん,日本でだって,コンビニでは時間刻みでお握りやお弁当を捨てているし,割り箸だって使い捨てで,アメリカはあからさまにそういうのが見えているだけなのかもしれない.だけど,どう考えたってまともじゃない.
写真は,好感度の高いUC riversideのキャンパスと,劇場の外観・舞台.
San Francisco/Yerba Buena Center for the Arts
ついに!というか,やっと...というか,いよいよSan Francisco公演最終日,一ヶ月間のツアーの終わりにきて,とてもコンディションの良い劇場で公演できている.周りには,学生のいい加減なスタッフなんて一人もいない.気持ち良く仕事してます.
90年代のはじめ頃に,ダムの作品展示でSan Francisco MOMAに来ているはずなんだけど,何一つ覚えていない.もしくは,SF MOMAの周りがまったく変わってしまったようで,ひとつとして見覚えのあるところが無い.
まあ,今回の会場でありSF MOMAの向かいにあるYerba Buena Center for the Artsも,93年だか94年だかに建ったらしいので,前に来た時はまったく違う景色だったのだろう.
そのSF MOMAでは,Ólafur Elíassonの大きな展覧会をやっていた.多くの作品は03年のベネチアビエンナーレ・デンマークパビリオンで観たものだったけれど,やはりどれも素晴らしい.03年以降の作品も交えて,興味深い作品の多い展覧会でした.サイトスペシフィックな作品の多いアーティストらしいので,できればどこかの建築用に作り込んだ作品を,そのうち現地で観てみたいなぁ.
あと,ホテルから劇場へ行く道の途中に,どうやらリベスキンドらしい建築中の建物があって,表示を見ると「Jewish contemporary museum」だった.何だか,いっぱい建ててますな.まあそれが仕事なんでしょうが.
写真は,Yerba Buena Center for the Artsの劇場舞台部外観と内側.SF MOMAとリベスキンドらしき建築中のミュージアム.
Exile or abandonment
今年初めのEaさんのツアーから帰って以来,ずっと気になっている事がある.気にしても仕方のない事だし,どうなるモノでもないのだろうが,整理のために少し書いてみよう.
Eaさんのアメリカツアーは,最初の公演地だけ東海岸で,あとはずっと西海岸での公演だった.いろいろと段取りの悪い事などあったが,まあ諸条件から考えると何とかなった方だと思う.
ただ,もっともピンチだと感じたのは,実は当時のブログには書いていない,最初の劇場での公演が終わった翌日の出来事だった.
公演が終わった翌朝,一人のダンサーがいなくなった.
前に書いているように,場所はBostonから車で3時間ほど離れた大学町で,その朝そのダンサーは,鞄に自身の荷物を詰めて,バスに乗ってどこかに行ってしまった.
そしてそのまま,遂に帰ってこなかった.
ツアーは,その人をアメリカに残したまま,約一月後に終了し,僕たちは日本に,ダンサー達はベトナムに帰国した.
もともとダンサー達はあまり英語が話せず,僕はベトナム語もフランス語も話せないので,それほど会話はなかった.でも,もう足掛け3年目の付き合いだから,その人の事も少しは知っている.
僕にとっては,ダンサー達の年齢は本当に分かりにくくて,それはもう外国人が日本人の歳をずいぶん若く見てしまうのと同じようなもので,みんな年齢不詳なのだけれど,その中では若干年上だったのだと思う.ハノイバレエからキエフに留学していた事もあるそうなので,ベトナム・クラッシックバレエ界ではエリートだったんだろう.結婚していた事もあるはずで,子供もいたと思う.
聞いた話では,ツアーにでる前に,新しく赴任したハノイバレエの芸術監督に,戦力外だと言い渡されたらしい.それが,レパートリーの中の何かの作品に対する決定なのか,それとももうベトナム国内ではどこでも踊らせないという事なのか,そもそも僕にはベトナムバレエ界のシステムが判っていないので,どれほどの決定なのかイマイチよく分からない.
社会主義の国だし,何度か滞在した経験から,プライベートのダンスカンパニーはおそらく作る事もできないだろうという事は想像つく.でも,そのディレクターが言い渡した言葉が,そのダンサーの人生にどれほどの衝撃を与えたのかまでは,僕には想像できない.
そして,このツアーは,おそらくベトナム国外に出れる,最後のチャンスだった.Eaさんのこの作品の公演には,先のスケジュールは入っていない.新作を作る予定はあるんだけれど,この作品を続けるかどうかは,未定なのだ.
それで,消えてしまった...
最初の公演が終わっても,その時点ではあと一月弱のヴィザが残っていた.おそらく,東海岸の方が,伝手のあるベトナム人が,多く住んでいたのかもしれない.(アメリカには,当時「南」から移住してきたベトナム人コミュニティーが,結構あるみたい)
でも,でも,だ...
たぶん,もう踊れないじゃないか.もし,お金なり何なりの工面が付いて,新しい名前と身分を手に入れたとしても,アメリカで自分が踊れるポジションにたどり着くのは,おそらく不可能に近い事くらい,分かっていたと思う.
もう,戻れないんじゃないのか,とも思う.子供だっていたし,親だって,友人だっていただろう.別に,国家に命を狙われるような事態じゃなかったとも思う.でも,もう簡単にはベトナムに戻れないだろう.
何がそんな気持ちを駆り立てたんだろう?
そんなに,「国」という存在に重きを置かないような,考え方や文化が根付いているんだろうか?
僕はあれから,時々自分の中に「亡命」や「棄国」という言葉を探してみるけれど,まったくもって見つける事ができない.それほどまでに,失踪したダンサーと僕の間には,理解を超えた差があったのに,まったく解らなかった.ハノイに滞在していた時だって,そんなプレッシャーというか,国を捨てなきゃいけないような雰囲気は,感じなかった.
失踪は,極度に個人的な事情によるものだったかもしれない.でも僕は,その前日に「ひさしぶりー」とか言って挨拶していたのだ.
何が,そういう決断に,導いたんだろう?
それが別に,何か悪い事だと思ってるわけではないんです.ただ,結構いろいろな国に行って,様々なモノをずいぶん見たし経験もしてきたのに,知らない事感じていない事はまだまだあるし,しかも自分は,そういうモノ/コトを考えるのが仕事じゃないかと,強く考えているわけです.
EMPAC/Troy
ダムの公演で,アメリカはニューヨーク州のTroyという町へ.
ちなみに,ニューヨーク州は,ニューヨーク・シティとはかなり離れた,東部のずいぶん北にある州.そういや,日本でも茨木市は茨城県とまったく違う所にあるけれど,これは漢字も違うし,まあ両方ローカルだし...NY市とNY州って,大阪府に大阪市が無いみたいなもんじゃないの.変なの.
そのToryにEMPAC (Experimental Media and Performance Center) というのがあって,そこの新しい本館というか劇場ビルディングの柿落しで,「Voyage」をやります.
そいでまあ,昨日着いたわけですが,来てみてびっくり,まだ劇場建ててます.それも,どう見ても,あと4日でできるとは思えません.金曜がオープニングで,公演もするんですけど...
聞けば,約一ヶ月程度,工期が遅れているそう.それもまたびっくり.一ヶ月って...普通この程度の規模の劇場だと(コンサートホールと,中型のプロセニアム劇場と,2つのオルタナティブスペースがある),オープンの半年くらい前には完成させて,それから色々テストとか繰り返して,それで開けるんじゃないの???
とりあえず,今日少し公演の仕込みをしたんですが,舞台の仕込みをしている真向かいで,客席作ってます.それに気になるのが,どうもオーケストラピットが,まだ当分動かないような...ずっと下がりっ放しで,ぴくりとも動かない...
さすがに,舞台上はけっこう焦って仕上げたようで,バトンも動くし,照明のディマーも生きてるし,公演はできそうだけれど...例えば,楽屋前の廊下は,今日床材を貼っていたし,楽屋の中はまだタダのコンクリの四角い箱.金曜までに客席も何とかできるかもしれないけれど,はたして外からお客さんが入ってこれるのかどうか.
オリンピック前の北京も,きっとこんなんだったんだろうなぁ.
会場の中は,何処もかしこもこんなの.